河 田 菜 風 翁 碑
菜風君が逝去した。
二年経過して
嘉謀は 菜風の行った事実を 永遠に伝えたいと願い、
多くの友人や 門人と 企画した。
刻文は 友人の荒木孝繁に依頼した。
孝繁は嘆いて言った。
「君は私より9才も若い。
死は 私より後にあるべきであったが
不幸にも先に逝った。
この後の役目は 私の任に耐えられない。
しかし、私と君の深い友情は 周知の事である。
人の道を辞退する訳にはいかない」
遂に刻文を記す。
文章に述べ表して曰く。
「中瀬村の河田氏は 先祖 新田氏の血統者より始まる。
農業に従事し 村の名高い家柄である。
その支族は増え広がり、君はその一支族である。
諱は嘉豊、字は公實、菜風は その号である。
亡父の諱は嘉氏、亡母は小林氏である。
亡父はよく働き 家の財産は やや豊かであった。
君は幼き頃より 吉祥寺で勉強した。
芳しいとの評判であった。
住職の觀海和尚は 学問に精通し 特に書を得意とした。
折しも 住職を辞め、塾を開いて 弟子を丁寧に教えた。
君はこの塾に入門した。
幼くして仲間より才知が秀でていた。
先生は大成を期待した。
その後 その言葉通りになった。
亡父は老いた。 家を受け継ぎ 家業に専念した。
本を読み 飽きる事なく務め励み、
同時に詩文を得意とし
最も書に秀でていた。
かくて 古くからの慣習を変え、もっぱら古法を良しとした。
君に学ぶ者は まさしく楷書を手本とした。
性質は地味で驕らず、派手で華やかを好まず、
飾り気が無く 真心の人である。
来客があると 一日中 立て板に水を流すように論じた。
人は皆 愛し重んじた。
時には あちらこちら あてもなく(計画的でなく)
諸方を巡り遊び、風流な文人雅人を訪ねた。
至る所で敬われた。
晩年に書斎を構えた。
多くの書籍を集め、机に寄りかかり、
読んだり詠じたりした。
時には筆をふるい 要請に応じた(書画を書いた)。
求める人は 毎日 多かった。
このような日が数年、
病気になり とうとう亡くなってしまった。
悲しみ惜しまない人はいない。
明治十三年一月三日 享年六十才。
島田氏より妻を迎える。
子どもは男三人、
長男 嘉謀 次男 嘉猷 三男は若くして亡くなった。
女子一人 すでに嫁いでいる。
君の生前を知らない人はいない。
逝去して惜しまない人はいない。
思うに その通りである。
回想してみると このような才能のある人が 他に誰がいるだろうか。
業(学問)に優れているなあ、
書道(詩文)も良し
才知に優れ 粋な姿、
上品で美しい晋唐代の書に没入し、
田舎に隠れていると言えども
世間一般の人であると遜る(へりくだる)ことがあろうか。
ここに日石を刻んで 後世に残る誉を伝える。
明治二十三年六月
友人 天外 荒木 孝繁 撰
東京 伊東南堂 篆額
友人 藍香 尾高 惇忠 書
田野祐修 鐫
(裏) 明治二十二年 八月 門弟子等建
菜風君が逝去した。
二年経過して
嘉謀は 菜風の行った事実を 永遠に伝えたいと願い、
多くの友人や 門人と 企画した。
刻文は 友人の荒木孝繁に依頼した。
孝繁は嘆いて言った。
「君は私より9才も若い。
死は 私より後にあるべきであったが
不幸にも先に逝った。
この後の役目は 私の任に耐えられない。
しかし、私と君の深い友情は 周知の事である。
人の道を辞退する訳にはいかない」
遂に刻文を記す。
文章に述べ表して曰く。
「中瀬村の河田氏は 先祖 新田氏の血統者より始まる。
農業に従事し 村の名高い家柄である。
その支族は増え広がり、君はその一支族である。
諱は嘉豊、字は公實、菜風は その号である。
亡父の諱は嘉氏、亡母は小林氏である。
亡父はよく働き 家の財産は やや豊かであった。
君は幼き頃より 吉祥寺で勉強した。
芳しいとの評判であった。
住職の觀海和尚は 学問に精通し 特に書を得意とした。
折しも 住職を辞め、塾を開いて 弟子を丁寧に教えた。
君はこの塾に入門した。
幼くして仲間より才知が秀でていた。
先生は大成を期待した。
その後 その言葉通りになった。
亡父は老いた。 家を受け継ぎ 家業に専念した。
本を読み 飽きる事なく務め励み、
同時に詩文を得意とし
最も書に秀でていた。
かくて 古くからの慣習を変え、もっぱら古法を良しとした。
君に学ぶ者は まさしく楷書を手本とした。
性質は地味で驕らず、派手で華やかを好まず、
飾り気が無く 真心の人である。
来客があると 一日中 立て板に水を流すように論じた。
人は皆 愛し重んじた。
時には あちらこちら あてもなく(計画的でなく)
諸方を巡り遊び、風流な文人雅人を訪ねた。
至る所で敬われた。
晩年に書斎を構えた。
多くの書籍を集め、机に寄りかかり、
読んだり詠じたりした。
時には筆をふるい 要請に応じた(書画を書いた)。
求める人は 毎日 多かった。
このような日が数年、
病気になり とうとう亡くなってしまった。
悲しみ惜しまない人はいない。
明治十三年一月三日 享年六十才。
島田氏より妻を迎える。
子どもは男三人、
長男 嘉謀 次男 嘉猷 三男は若くして亡くなった。
女子一人 すでに嫁いでいる。
君の生前を知らない人はいない。
逝去して惜しまない人はいない。
思うに その通りである。
回想してみると このような才能のある人が 他に誰がいるだろうか。
業(学問)に優れているなあ、
書道(詩文)も良し
才知に優れ 粋な姿、
上品で美しい晋唐代の書に没入し、
田舎に隠れていると言えども
世間一般の人であると遜る(へりくだる)ことがあろうか。
ここに日石を刻んで 後世に残る誉を伝える。
明治二十三年六月
友人 天外 荒木 孝繁 撰
東京 伊東南堂 篆額
友人 藍香 尾高 惇忠 書
田野祐修 鐫
(裏) 明治二十二年 八月 門弟子等建
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