これは1月17日(水曜日)の
読売新聞朝刊の埼玉版なのですが、
「よみうり五行歌」の特選に
所沢の女性の歌が採用されています。
五行歌というのは、
短歌でも俳句でもなく、
短い五行に分かち書きされた詩です。
自由律の句、題名のない詩、
と言えるのでしょうか。
勝手気ままに書き散らすことができ、
子供でも、年寄りでも、
誰にでも書けそうです。
五行歌の創始者である草壁焔太(くさかべ えんた)の選による
五つの歌の中で
一等初めに載っているのは、
こんな歌です。
最期に言えないと困るので
今言います
ありがあとう 幸せでした
3年前の母の遺文に
心がやわらぐ
私は「遺文」という言葉に違和感を持ちましたが、
「遺言」というほど堅苦しいものではないのだろう、
と想像しました。
「遺文」には
「故人が生前に書きのこした未発表の文章」
の意味があるそうです。
この人の「遺文」は
「遺言書」なんていうキッチリしたものではなく、
亡くなった人が書き残したメモ書きのようなもの
だったかもしれません。
そんなメモを書き残せたら 幸せな人生だったと思うし、
書き残せた事に満足して死ねそうです。
人は 死ぬ間際に
思い通りに動けたりしゃべれたりする事は
稀なのではないでしょうか。
ドラマなんかで 手を取り合って
「ありがとう」
「おとうさん!」「おかあさん!」「おじいちゃん!」「おばあちゃん!」
ピーーーーーー(機械音)
・・・・・・・・・・・・
「ご臨終です。」
という展開を見た事はありますが、
実際にそうだったと聞いた事はありません。
いえ、そういう場面の翌日に亡くなった人の話は、
先日 新聞で読みました。
「そういう場面」は 探せばあるのかもしれませんが、
なかなかうまくいかない場合も多いと思います。
最近みた医療ドラマには、
苦しみを和らげるために薬剤を使う、
そうするとそのまま臨終に向かう、
という場面がありました。
「命の危機が迫った状態になると、約70%の方が、
医療やケアなどを 自分で決めたり、
望みを伝えたりすることが できなくなる」
という文章が ACP普及啓発教室のチラシにありました。
私は 幡羅公民館で行われたこの教室に参加する事は
できませんでしたが、
一昨年の 大寄や豊里の公民館へは参加して、
もじょもじょと 何かを考える事をしてきました。
いざという時に 望まない医療につながるのは
ちょっと、ごめんだけど、
それは誰かに伝えておかないと、
何の意味もなくなってしまいますね。
「もじょもじょ」では、役に立たないのです。
もっと 具体的に考えて、
身近な人に もっと伝えて
備えておかなくては。
そう思いつつ、
なかなか具体的な行動に移せないのは、
「まだまだ大丈夫」という思いからでしょうか。
わたしの「もじょもじょ」は、まだ続きます。
画像は、先日 東京ステーションギャラリーの
「みちのくのいとしい仏たち」で
購入してきた図録です。
この展示は、説明文が
何ともいえずおかしみがあって、
そこも気に入ったのですが、
会期の終盤に行ったものですから、
会期中にお知らせできませんでした。
せめて図録の表紙だけでもご覧下さい(笑)。
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