住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

(改訂増補) 神仏習合のこと2

2007年04月30日 19時54分08秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
このケースと同様な例として、10年ほど前まで私が暮らしていた東京都江東区深川に富岡八幡宮がある。この神社は、江戸三大祭りの一つ、裸祭りで有名な神社である。ここも実は、江戸寛永年間に永代島を開拓した真言宗の僧が八幡神を勧請して神社を造営し、後に寺格を調え、珍しく聖天を本尊とする永代寺を富岡八幡別当寺として建立した。

そして永代寺の広大な境内で江戸時代には成田不動尊の出開帳が行われた。それが江戸庶民の大変な人気を博し、明治になって永代寺が残念ながら廃寺となった際にその境内地を深川不動として譲り受けた経緯がある。その後深川不動参道途中に永代寺の寺名を継承する寺院が建てられた。門前仲町という町名駅名を残す土地ではあるが、その門前のことをもとは永代寺門前町と言った歴史は実は意外と知られていないのである。

それではここで特に何度も登場する八幡神について述べてみよう。現在、八幡神社は全国に4万社あるという。全国の神社総数12万社の実に3分の一が八幡社ということになる。八幡宮の祭神は応神天皇のご神霊であり、応神天皇の神霊は仏教伝来時の欽明天皇の御代に大分県宇佐の地に顕れたと言われている。

そしてその時には既に、八幡神は、仏教ないし道教と融合して、仏教の八正道の教えが垂迹して八幡になったのであり、八正道の標幟であるとの説もあるほどで、仏法守護の神として仏教と一体となり古来信仰されてきたのであった。

天平勝宝元年(749)に奈良の都に大仏が出来ると孝謙天皇は宇佐八幡別当弥勒寺に綿6万トン稲6万束を寄進して、奈良の都に八幡神を迎え、東大寺鎮守として手向山八幡宮を造営。総国分寺である東大寺を通じて八幡神は全国の国分寺を常住守護する神と位置づけられて、国分寺が創立されると自ずからその近くに八幡社が勧請されるようになる。

確かに、現在ある殆どの国分寺の近くに八幡社が鎮座している。国分寺と八幡社の所在地は、ここ備後国分寺のように隣接している場合ばかりでなく、三四町離れている場合もある。しかし、地域の守護神としての神祇がこうして地域性を越えて鎮護国家、庶民救済、仏法守護の神として祀られることで、八幡神は仏教を通じて国家の守護神としての地位が確立したのであった。

そして、平安時代になると八幡神は「八幡大菩薩」と呼称され、地蔵菩薩形の八幡大菩薩像が造像され、多くの寺院の守護神として勧請されていくのである。
その後貞観元年(859)に京都石清水に八幡神の分霊が勧請された。宇佐八幡では社殿と神宮寺が別個に存立し、祭祀は斎会と呼ばれ殆ど神仏混淆したものであったが、神職が社僧の上位にあった。

しかし、石清水八幡宮では一山の管理はすべて僧侶が占め、神主は僧侶の末席に位置し、祭祀様式は完全に神仏融合が計られたという。そして本地垂迹説の普及によって、八幡神の本地は当初、釈迦三尊とされ、11世紀には末世の到来と浄土思想の流布に応じて弥陀如来とされていく。

鎌倉時代には源氏の氏神を鎌倉鶴岡八幡宮に祀り、それによって八幡神は武家の守護神、武運の神という性格を併せ持つようになる。鶴岡八幡宮も岩清水と同様に官寺として別当・神官を置いて放生会を正祭とした。

室町時代になっても、足利氏は八幡神を崇敬し、特に義満は石清水八幡を足繁く参詣した。その後石清水八幡別当家では清僧を捨てて妻帯し世襲した。江ノ島弁財天でも、同様に世襲したと言われるから、早くから大きな神社を管理する別当寺家では妻帯し世襲することで法灯を継承していったようだ。

また朝廷や皇室の八幡神に対する崇敬も言うに及ばず、国家の大事には必ず奉幣して崇敬の誠を表し、特に白河天皇は石清水八幡を国家の崇廟として八幡大菩薩を鎮護国家の霊神として年毎に行幸し一切経を供養し大般若経を修したと言われる。

その後江戸時代にはすべての国民が寺院檀徒とされ事実上仏教が国教の地位を与えられていたのであるから、その後も、こうした神仏融和の歴史が長く続いたのである。しかし、明治に年号が改元される年に公布された神仏分離令、それに端を発する廃仏毀釈の嵐によって、寺院と神社のこうした一千年を超える歩みは瞬く間に粉砕され、今日にいたる。

全国各地で寺院が壊され経巻仏像が燃やされて僧侶が還俗させられた。神社にあった鰐口や半鐘、様々な仏具、仏像のような神像、経巻等々は撤去され、境内を分割して、それまで僧坊から神社に出向く社僧が神社を管理運営していたが、新たに神職から宮司が任命されていった。

ここ備後国分寺に隣接する下御領八幡神社も、創立当時国分寺鎮守として祭祀された神社であり、貞享三年(1686)の再建棟札には、「領主水野勝慶の君命により修復。遷宮導師國分寺法印快範之を勤む」と記されているという。

これにより、当時は國分寺住持が鎮守八幡の別当職として、僧侶が神社の祭祀を取り仕切っていたことが分かる。長い一千年にわたる日本の神仏交渉史を証明するものとして、冒頭に述べた國分寺本堂の黒い厨子の中に祀られた本地仏阿弥陀如来像と八幡大菩薩像を今後も大切にお守りしていきたいと思う。

ところで、いま奈良国立博物館では、「神仏習合展」が開かれている。以下のような次第で展示されている。是非拝観していただきたい。

会 期 平成19年4月7日(土)~5月27日(日)
会 場 奈良国立博物館 東・西新館
休館日毎週月曜日
※ただし、4月30日(振替休日)は開館。
※5月1日(火)は振替休日の翌日ですが、開館。

開館時間午前9時30分~午後5時
〔毎週金曜日は午後7時まで〕

(展示趣旨) 日本人は古代より、山や河あるいは雷など、さまざまな自然現象の中に神の存在を見いだしてきました。このような日本人の宗教観念の基層を形づくってきた神々に対する信仰と、外来宗教である仏教が深く融合した信仰のあり方を、今日一般に「神仏習合〔しんぶつしゅうごう〕」と呼んでいます。

大寺の大仏造立に際して八幡神〔はちまんしん〕が助力したことに象徴されるとおり、「神仏習合」は奈良時代の国家仏教形成とともに著しく進展し、この頃から仏像の影響を受けながら、神の姿を造形化した神像も盛んに製作されるようになります。

また中世に入ると、神は仏が人々の前に仮に顕れた姿であるとする本地垂迹〔ほんじずいじゃく〕説の広まりとともに、八幡神は阿弥陀、春日神は釈迦や文殊といった本地仏〔ほんじぶつ〕を具体的に表す絵画などが盛んに作られました。

近年、日本の神に対する関心の高まりとともに、こうした「神仏習合」の姿を具体的に伝える造形遺品や文献史料の紹介が相次いでいます。本展は、これらの成果をふまえつつ、初公開となる神像や、古の社の景観美を伝える宮曼荼羅〔みやまんだら〕、金工技術の粋を誇る鏡像〔きょうぞう〕・懸仏〔かけぼとけ〕などの名品を一堂に会し、〈かみ〉と〈ほとけ〉が紡ぎ出す美の世界を幅広く紹介するものです。 以上


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