住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

ある訪問者

2009年07月05日 15時28分23秒 | 様々な出来事について
先月の月例行事の前日、さあ準備を始めようと思ったら、ある人が訪ねてきた。訪ねてきたと言うよりは第一声は「写経用紙を下さい」だった。写経用紙を出してくると、玄関先に座り込んで話し出した。「いやもうまいりました。この二ヶ月生きた心地がしません」という出だしだったか、とにかく一気呵成に話し出した。

若い嫁さんを息子が貰ってきたと思ったら、子供が連れ子が一人おって、最初は仲がいいと思っていたら毎晩のように大げんかを始める。小さな子供がいるのにそっちのけで、刃物も飛び出す始末。かと思ったら、嫁さんの方が引きこもっていると思うと、手首を切っていたり。息子は仕事で何日も帰らない。そんなんだから、まったく家事もできやしない。

自分の妻も具合が悪く病院を出たり入ったり。その上寝たり起きたりのおばあさんまでいる。その間に入って自分は仕事にも出なくちゃいけないのに家庭がそんなんだから行ったり様子見に帰ってきたり。洗濯も炊事も自分がしたり息子がしたりで、落ち着かない毎日。休みの日には前には気晴らしに山に登ったりお寺に参ったりしていたがそんなことも夢の夢。昨日は小さな子を連れ出して公園で一日遊ばしてきた。

そんなこともしなくては若い夫婦の時間もあったもんじゃない。それでいてケンカばかりして、こっちは夜も満足に寝られやしない。そうかと思うと、その嫁さん、実家が何か霊が見える人がいるとかで、このうちの家の裏にある無縁墓の霊がたたっているだの、夜な夜な現れるだのと言い出した。近くのお寺さんに来てもらって、お祓いをしてもらったときはしばらくは何も言わなくなったが、そのうちまた昨日も来てたというようなことを言い出した。

何とかならないですかね。と言いながら、こちらの話は聞かずに、昔語りに、自分の母親の性格やら過去にあった四方山話を言いつのったかと思うと、突然写経の話になってみたり。またまた人は感謝の心を持たなくちゃいけない、人様に何かしてもらったら、礼を言うことくらいのことは必要だとか。・・・・。

とにかくそうして気がつくと小一時間話とおして、こちらから、まあ、そう言っても、新しい環境になれるまで時間も必要でしょうし、などというと「それじゃ、すいません、ありがとうございました」と言うなり、写経用紙を持って、さっと帰って行った。

こちらがそれでは、と思う間もなくお帰りになったのではあったが、何かこちらは消化不良。言うだけ言ってスッキリしたのか、何もお持ち帰りにならずに帰られたような気がして後味が悪かった。それにしても、いろいろな問題点が透けて見える。①リストカットとお嫁さんの実家での家庭環境のこと②霊のこととお墓③家族というものの理想と現実。

①については、以前にもここで書いたことがあった。身近な人に自分のことを気づいて欲しいという気持ちが自虐行為に駆り立てる。おそらく実家のお母さんお父さんとの関係の中に自分が見捨てられた必要な子ではないと思われていると決めつけているようなところがあるのではないか。そして本人がまだ自立できていないということが大きな問題であろう。さらには離婚や二度目の結婚についてもいろいろな紆余曲折があったであろう。そんなところの心の動揺がまだ落ち着いていないということなのであろう。

②については、ついつい霊能があるなどというとすべて分かっているという勘違いをされる人がいる。 霊能にも段階があって、ほとんどの人たちが亡くなった人の浮遊霊が見えるという程度なのではないか。見える人にはその人の心の次元にあった霊が寄ってくる。心が暗く恨みや嫉妬怒りの心があればそういう低次の霊が集まってくると言われる。その場所が問題なのではなく、その人が問題を抱えているがためにその周囲を巻き込むことが往々にしてある。無縁の墓はどこにでもあるし、亡くなった人がいない場所はない。冷静な対応が必要なのではないか。

③については、何事も新しい家族が増えれば、様々な軋轢を生むし、摩擦があって当然だろう。お互いに慣れるのに時間も必要だろうし、時間を掛けても解決されないことも多々ある。そういう場合は、距離を保って関係を改めることも必要だろう。あまり近づいたら大火傷をするが、距離があればどんなに熱いものでも耐えられる。みんな自分がかわいいし自分のことで頭がいっぱいだ。そもそも人はわかり合えないものだと思わないといけない。何ごともこうあるべきという理想ばかりではうまくいかない。理想と現実は違って当然だろう。そう思ってかからねばならないのではないか。

様々な人が様々な思いを抱えてやってくる。もちろん電話もよくかかってくる。何でもじっくり寄り添って聞いてあげるのが精神的な病い、心の傷を持つ人との対応の仕方であるというような言い方もなされる。しかしやはり聞くだけではいけないだろう。きちんとこちらの対応もなくては何のために話されるのか分からない。確かに答えを求めている人ばかりではない。しかしいざというときの答えは、やはり仏教の真理にてらした方針がなくてはならない。是非またお越しになることをお待ちしたいと思う。

(↓よろしければ、クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村


コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする