住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

『葬式は、要らない』を読んで(2/21追記)

2010年02月19日 14時56分18秒 | 仏教書探訪
今年1月30日第一刷発行の新刊である。著者は、元日本女子大教授で、現在は東大の先端科学技術研究センター客員研究員の島田裕巳氏である。新聞の広告欄に大きく宣伝されていて、関係諸氏からコメントを求められたときに必要であろうかと思い読んだ。

読後感は、はっきり言って、著者島田氏は何を言いたかったのだろうかということだ。このタイトルにあるように葬式は要らないと、時代の流れだと言いながら、条件付きでの、不要論であることを結論としている。

人が「最期まで生ききり、本人にも遺族にも悔いを残さない、私たちが目指すのはそういう生き方であり、死に方である。それが実現されるなら、もう葬式がどのような形のものでも関係な」く、自ずと葬式を不要にすると述べている。最期まで生ききる、悔いを残さないということをどのようなことをいうのかは記されていない。

延々と日本の村社会での祖霊崇拝や仏教のあり方、また諸外国の葬送にまで言及していながら、大事なところを語らずに外面的経済的な事情から葬式が要らないとだけ結論している。はたして、おおかたの人が今病院で亡くなる中で最期の最期まで自分の生を生ききれる人がどれだけあるだろうか、完璧に悔いを残さない人生を送れる人がどれだけいるであろうか。

そう考えるとき、この先生の言いたいことは葬式が要らないということではなくて、都会で流行る直葬に、安易にか、致し方なくか、そうせざるを得ない人たちに、やはり大切なことがあるのだということを教えたかったのだろうかとも思える。

それにしてはその大切な部分、葬式は要らないとして、葬式をせずに、亡くなっていく本人をどう弔うのか、また、遺族はどうしたらいいのか、その心のありよう、いかにしたら身近な人の死を受け止め、癒していけるのかということには全くといって言及されていないのは残念なことである。

確かに派手になりすぎるのも考え物であろう。金額的に各国ごとの比較もされているが、それがどのようなことに使われた金額なのか、その数字の取り方は内容的に整合するものなのかも詳しくは書かれていない。ただ日本人の葬式が贅沢になったのは仏教が葬式を担うようになったからだとし、葬式仏教と日本仏教を貶め、戒名という不透明な存在を批判する。

歴史的背景にも言及されてはいるが、それによって人々はどのように人の死を受け止め、何代にもわたり先祖を祀ることをどのように受け入れてきているのかという内面については解明されていない。身近な人が亡くなったときの残された人たちの心の問題にもあまり触れられていない。

島田氏が指摘するように都会と地方での家に対するとらえ方、地域の受け入れ体制の違いから葬式のありようが変わっていくことは致し方ないことであろう。経済的に誠に厳しい現状から葬式を出すこともできないことも考えられる。しかしだからといって、葬式が不要であると結論することはできまい。他の仏教国ではもちろん仏教徒が死後戒名をつけることはないが、葬式やその後の法要もきちんとなされている。

インドでの経験しかないが、インドの伝統仏教教団・ベンガル仏教会で、何度となく、仏教徒の葬式やサンガダーンという法事にも参加させてもらってきた。裕福な家は盛大に、貧しい家はそれなりに葬式も行い法事も行われている。他の国々も同様であろう。

違うのは、日本では死後四十九日の後に来世に転生すると考えるが、インドでは、七日後に転生すると考えられている。だから日本でいう四十九の盛大な法事に当たる法事を六日目ないし七日目にしていた。

だから、葬式は仏教でしても良いのではないか。それよりも問題なのは、檀那寺がある人は、そのことの意味をきちんと受け入れ、お寺の側は、人の死とはどのようなことか、葬式とはどのような意味があり、戒名とは何なのかをきちんと説明することではないか。そのことが不十分なので、この書でも、本人や家族知人が戒名をつけたらいいと書いてあり、それが単なる死後の名前、生前の人となりを表す称号だとのとらえ方をされてもいる。

生きるとは何か、死とは何か、どう生きるべきかをことあるごとに布教することこそがお寺の役割ではないかと思う。そして、それは僧侶自らがどうあるべきかということにいたり、各本山ともどもこれからの宗団僧侶がいかにあるべきかを侃々諤々議論すべきなのだと思う。島田氏もそのことを指摘している。そうすれば葬式仏教、戒名のあり方に対する批判も違ったものになると。

島田氏は、冒頭に引用したこの書の結論を述べる前に、故人を弔うために集まった人が故人がもう十分に生きた、立派に生き抜いたことを素直に喜ぶ、そんな葬式なら無用とは言えないとも述べている。また、「一人の人間が生きたということは様々な人間と関係を結んだということであ」り、「葬式にはその関係を再確認する機能がある。その機能が十分発揮される葬式が何よりも好ましい葬式なのかもしれない。そんな葬式なら誰もが上げてみたいと思うに違いない」とも書かれている。つまり葬式を擁護し、葬式のあるべき姿を提言してもいる。

それはどこであっても、おそらく地方にあっては地域社会との関わりの中で当然そのような位置づけのもとに現在でも葬式が執り行われているであろう。願わくは、都会にあっても、日頃から宗教者との関係を結び、出来れば様々な機会に人の生き死にについて話し関係を深めつつそのときを迎えるようにあって欲しいものである。つまり本書は、『葬式は、要らない』のではなく、『意味のある葬式推進論』であると言えよう。


(追記) 何度となく新聞に広告が載る。そこには過激なキャッチが所狭しと書かれている。「葬式に金をかけられない時代の葬式無用論。」「日本の葬式費用世界一。」「戒名を家族で自分でつける方法」ともある。確かにそんなことも書かれているであろう。しかし、島田氏の終章での結論は記事の中に書いたとおりである。広告のキャッチと実際に本を読んでの印象はまるで違う。

広告だけを見て影響を受ける人もあるだろう。本を読んだとしても既にすり込まれた関心を持った部分だけを読んでこと足れりとする人もあるだろう。都会では地域社会との分離、全くの形だけの葬儀が進行しているのかもしれない。しかしそうした地域ばかりではないはずだ。

葬式仏教と揶揄されるが、今日においても葬式法事によって、貴重な仏教を説く機会になっているばかりか、普段会えない親族との交流を図り、小さな子供たちにも親族地域社会との繋がりを確認する場として機能している。人間関係を築けず、家庭の中でも孤立していく人間関係をこれから私たちの社会がどのように健全なものにしていくべきなのか。そうした点に対しても何も触れられず、提案もなく、一方的に葬式無用をこのように宣伝するかの無責任な表現は厳に慎むべきであろう。 


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コメント (6)
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