住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

四十九日の意味するところ

2014年02月09日 12時13分53秒 | 仏教に関する様々なお話
昨日、ある満中陰の法要が行われた。大雪の降る中、それぞれの思いを込めて大勢の方々が足元の悪い中参集された。雪で高速が通行止めのため新幹線に乗ってこられた方、雪の中を遠くから歩いてこられた方もあった。納骨終わって思わず歴史に残る納骨式でしたと言ってしまったが、私自身長靴履いて法事に出掛け、雪をかき分け納骨するなどということは初めてのことであったし、これからもおそらくないだろう。

昨年の年末に亡くなられた91歳のお祖母さんの四十九日だった。枕経、通夜、葬儀を経て、年末年始をはさみ毎週七日参りにも遠方から沢山のご親族が集まられ熱心に勤行次第をお唱えになった。その間数名の方に、以前にも紹介したことのあるNHKスペシャルで1993年に放映されたチベット死者の書「死と再生の四十九日」というドラマタッチの番組DVDを見ていただいた。

感想を聞くと、チベットという異質なところでのお話という受け取り方をされていた方もあるが、来世があると思えば生きるのが楽になりますねと言われる方もあった。いずれにせよ、文化の違いや風俗習慣の違いはあれど同じ仏教徒として基本的な考え方は私たちと同じだろう。もしも違うと考えるのなら、それは日本仏教が明治時代以降変質してしまった証である。衆生は六道に輪廻する。そこから解脱するために教えがあり、修行により智慧を生じさとるための教えが仏教であろう。

そのDVDから私たちが学ぶべきは、亡くなった人のために遺族親族の四十九日の過ごし方が大切なのだということであろうかと思う。たとえば、葬儀の後、祭壇も祀らず、床の間にぽつんと骨壺が置かれている風景を想像してみたらいかがであろう。故人の心はその光景を見て心寂しくなり自分はどうしたらよいかも分からぬままに四十九日を迎え、それこそ暗い心のままに下の世界に堕ちて行ってしまうということも考えられる。

そうではなくて、仏教に対して余り接点を結ぶこともなく過ごしてきてしまった故人に、間違いのない導きをしてあげることこそが大切ではないか。四十九日まで私たちと同じこの空間を浮遊する故人の心に、餓鬼や蓄生の世界に転生することなく、少なくとも人間界に再生して出来れば仏教徒としてより良い人生を迎えてもらうよう導くことこそが大切だろう。そのためにこそ戒名があり、仏教徒としての名前を持って来世にお送りするのではないかと私は考えている。

七日参りでは、「仏前勤行次第」をお唱えする。冒頭、「うやうやしく御仏を礼拝し奉る」と唱えるが、礼拝するとはなんだろう。お唱えしながら、ちゃんと自然に頭を垂れることが出来ただろうか。礼拝とは、ありがたい存在に対する敬意を行動として示すこと。心から敬う気持ちがあれば、自然と頭が垂れる。そういう親族の姿を亡くなった人に見てもらい、私たちが敬うべき存在とは正しく教えを示して下さっている仏様であることを確認し、そのことの大切さを認識してもらうことだろうと思う。

敬うとは自らの価値観を示すことに他ならない。私たちの信じるものは金や権力などではない、清らかな生き方を示され、すべてのこの世の真理を知り尽くされた最高の人格として二千五百年も世界中の多くの人々から礼拝されるお釈迦様こそ、私たちの最高の理想とすべきお方であり、信じてその生き方を学び行じることで一歩でも近くにまいりたいと思える、そのようなお方をこそ私たちは敬うのだということを表明することであろう。自らの人生の理想、手本、導き手として信じる、敬うとはそういうことだろう。

だからこそ、礼拝を何度も何度も、例えば、高野山でも四度加行の初期には一座一座の前には必ず108回の礼拝を行った。チベット人亡命政府のあるインドダラムサーラの法要ではお堂の中で僧侶の読経が続く間ずっと外では、信者が五体投地の礼拝を繰り返していた。そうして何度も礼拝すると、自ずから三つの心が生じてくると言われる。それは、懺悔(さんげ)、帰依、誓願の心。懺悔とは、自らの心を反省すること。自分のことは棚に置き、人のことばかりに口を出したい私たちではあるけれども、そうではなくて自分の身と口と心の行いをかえりみる。つまり自らを観察し、己を知るということが大切なのだということだろう。

帰依は、何も知らない何の力もない自らを救ってくれるもの、つまり三宝に助けを乞うことである。自らの理想とするものに近づくために、仏とその教えとその教えを示してくれる人々に自らの姿勢を示し助けを求める意思表示をすることである。誓願とは、そのような理想に向けてより具体的に自らの行動について正しく生きることを誓い願うことだろう。これら懺悔、帰依、誓願を改めてお唱えするのが、勤行次第の中の礼拝に続く、懺悔文、三帰依文、十善戒となるであろう。礼拝によって得られた自らの素直な敬虔な心を口に出して確認し、より強固なものにしていくのである。

ここまで解説して分かるように、この勤行次第は亡くなった人のために、特に法事の席では当該精霊のためにお唱えしているかの如くに思われている人もあろうが、最後に「願わくばこの功徳をもってあまねく一切に及ぼし・・・」とあるように、唱える人自らにとって功徳があり、あるからこそ、その功徳を亡き人に、法事の精霊に供養し回向することが出来るということになる。逆に言えば、唱える人が、自分にとってはどうでもよいことなのだけれど、法事の席だから一緒に唱えているのだということではもとよりお唱えする功徳は及ばないということでもある。

どうせお唱えするのなら、自分にとっても何か功徳があり、何か意味がある、よく分からないけれどもありがたいものなのだろうと思ってお唱えした方が得だということなのである。そうあってこそ、亡くなられた方に間違いのない方向をきちんと教え導く助けとなるということであろう。昨日は歴史に残る大雪の法事。思わず熱が入ってそんなことを感じ取って頂きたく長々お話しした。聞いて下さった方にどれだけ心に残ったかは分からない。年末の一周忌法要ではこの続きを復習も重ねながらお話ししたいと思う。



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コメント (2)
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