住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

あるお寺様での法話草稿一

2014年09月08日 11時58分31秒 | 仏教に関する様々なお話
はじめに 名誉住職遷化と四苦八苦

ご紹介いただいた横山です。本日は○○法要にあたり、こうしてたくさんの皆様の前で法話できますことは誠にありがたく光栄に存じます。こちらとは先代から誠に深い交流があったようで御座います。こうしてこの場に立たせていただいているというのも、先代からのご縁によるものと感謝いたしたいと存じます。さて、その先代が亡くなり、急に身近な人が亡くなってみますと、人が亡くなるというのは寂しいものだなと実感いたします。人の生と死ということをまざまざと考えさせられまして、今頃は法事でもどこででも、人とは生老病死、四苦八苦を生きているということを申しております。

生まれ、老いて、病になり、死すというのは人として生まれたからには付いて回る掟のようなものですが、そこにさらに四つの苦しみがまとわりついているのです。四つと四つで四苦八苦と申しますが、五つ目の苦しみとは、愛別離苦、まさに身近な愛する者とは誰でもずっと一緒にいたいわけですが、そうはいかないですね、ずっと一緒にはいれないのですし、いずれは別れ離れになる苦しみ。それに対して、怨憎会苦というのがあり、恨んだり憎んだり、逆に恨まれたり憎まれたりする相手が必ず現れて苦しまされる。それも人間として宿命のようにあります。皆さんよくご存じです。

それから、七つ目には、求不得苦といって、求めても得られない苦しみがあります。無い物ねだり、たくさん持っていても余所にあるものが欲しい、だけど得られないという苦しみです。それから五縕盛苦という、般若心経に出てくる五縕、これは私たちの体と心の働きのことですが、それらに執着して苦しみを自ら作り出しているというものです。

私がこの地に来て、15年になりますが、来た当初は厳しい環境の中、毎日のように先代から怒りをかっていたように思うのですが、その頃は怨憎会苦の日々だったかなとも思えるのです。が、それも五年、十年、となり、やっと気持ちが通じ合いお互いに本当に良い関係になったかなというときに急に亡くなられて、今は愛別離苦の苦しみを味わっているのでありますが、同じ人に対してもそうして時間と共に変わってくる、苦しみというのはそう考えますと決して無駄なものではなくて、心がそれだけ変化し成長するための糧としてあるのだということが解ります。

仏教の教えを生かす 海外の展開

仏教ではそうして誰もが、四苦八苦の苦しみの人生を生きていると考えるのですが、仏教という教えに出会ったからには、それらの苦しみを何とかしたい、そのための教えではないかとも思うのです。ですが、私たちの仏教というと、今日は法要でもあったわけですか、先祖供養、お葬式、法事という関わりがほとんどです。もう少し生活の中に役に立つ教えとしてあって欲しいそう思えるのです。そんなことを考えたことはありませんか。

実は海外では、特に欧米のキリスト教の文化圏で今仏教がものすごい勢いで普及しております。ヨーロッパで百万人、アメリカには三百万の仏教徒がいると言われております。もちろんアジアから移民した人たちも含まれておりますが、白人たちが多く信仰というよりは仏教の教えや実践に強い関心を抱いています。そもそも今から230年ほど前、日本では江戸の天明・寛政の頃ですが、ヨーロッパの列強が植民地として南アジア、インドやスリランカに入っていった、特にイギリス人たちが現地の文化や宗教を研究する過程で、仏教に関心を寄せ、原典をパーリ語やサンスクリット語で読み出し、アジア学、インド学なる学問に発展させていくのです。

辞書や原典のアルファベットによる校訂本を出したりいたします。それで、哲学者たちですね、ショーペンハウアー、ヤスパースやニーチェといった人たち、さらにユングといった心理学者も仏教を高く評価する。そうしていろいろあって、今日では、沢山のアジアのお坊さんたちも欧米に行き、キリスト教徒に教えを説き、それはたくさんの座禅や瞑想のセンターができています。そして特に、今日では精神医学に仏教の瞑想が取り入れられ、鬱病やストレス障害に効果があると学問的に評価されています。

フェイスブックという世界的なSNSのサイトがありますが、それなどを見ておりましたら、「ハーバードビジネスレビュー」というアメリカのビジネス情報に、グーグルやアップル、ゴールドマンサックスという大企業の幹部のために仏教の瞑想、マインドフルネスという言葉が使われて、気づきの瞑想ですね、瞬間瞬間の今に気づきつつある瞑想、ヴィパッサナーという瞑想ですが、その瞑想による研修が開かれ、とても人気が高いとありました。仕事帰りに、座禅をしたり、チベツト仏教の瞑想所に寄って帰るというビジネスマンも多いのです。日本でも、京セラの稲盛会長が座禅をして、臨済宗のお坊さんにまでなられてますね。そういう例は沢山あります。

私たちにとっての仏様 仏壇とは何か

しかし私たち日本の仏教は、葬式をして、法事をして、勤行次第を唱えて、お墓参りをしてと、なかなかそうした仏教の実践に至らずにいるように感じます。ですか、本当は、なにげに、意識せずに私たちのしていることは、本当はとても意味のある、立派な仏教の実践なのだというふうに私は思っています。ただ、それをもう少しどういうことなのかと、それらの意味についてしっかり意識していただけるともっとすばらしいものになる、そう思っております。

たとえば、仏壇とは何でしょうか。家の一番上等な部屋に置かれています。とても大事なものだということですね。そして毎朝一番早く大事なご飯仏飯とお茶を差し上げ手を合わせ、チンといわせています。お経を唱えたり、勤行次第をきちんと唱えられる方もあるかもしれませんね。それは何のためですか。ご先祖様に今日一日みんな元気で幸せでありますようにと祈っています。

たとえば、息子さんや娘さんが青い目の外国の方を連れて家に来たとして、まあ、お茶でもと上等な部屋に通したら、仏壇があった、興味を示されてこれは何ですか、と問われたらどう答えられますか。仏様とご先祖を祀る箱だと言ったとします。すると、お宅はブッディストの家ですね、ということになる。ということは、仏壇とは仏教徒のあかし、シンボルということになります。ところで、皆さん家に仏壇があるわけですが、仏教徒という意識はありますか。

では、仏様とは何でしょうか。私たちにとって、仏様とはどういう存在なのでしようか。私たちの人生にとってどんな意味がありますか。私たちが生きる上で別段何の意味も価値も無いなら、毎朝お供えをすることもない。手を合わせる価値もない。ですけれども、皆さん、きちんきちんとお供えを欠かすことはありません。おそらく仏壇のある家では皆さんそうされていると思います。ですが、ご自分ではそのことを何とも思わずにされておいでですが、本当はとても尊い行いです。なぜなら、仏様という存在を立派に自分の一番尊い、偉い、価値あるものという気持ちを表すべく、合掌し礼拝しているからです。

お釈迦様とは 

2500年前にインドでさとられたお釈迦様の教えを今に至るまで尊い教えとして信奉し、その価値を認めておられるから一番上等なところに祀りお供えし礼拝しているのではないですか。そうですよね。その教えはどんな人でもすぐに幸せにしてくれるありがたい教えで、分け隔てなくどんな人にも有効な教えです。仏様はこの世の中のすべてのことに精通され、この世のことわりをさとり、いつも幸せなお顔をして何があっても動じることもなく、困ることもありません。この世で最も幸せを味わっている人が仏様です。そんな人になりたい。誰もがそう思うようなお方です。皆さんもそう思われている、だから毎朝礼拝し、敬い、1歩でも近くに行きたいとそう思って供養を捧げるのではないですか。そうじゃないですか。

ですが、皆様の家の仏壇にはたぶん、大日如来様が座っておいでです。こんなお姿をしています。インドでは、右手はきれいな手、左手は不浄の手です。右は仏様の手、左は衆生です。右手でこうして左の人差し指を握ることで、衆生すべてと仏様とが一体であることを表しているのですが、こうした教えも仏様方もすべては、お釈迦様の紀元前450年頃インドブッダガヤでのさとりに端を発しています。そのお釈迦様のさとりの徳をそれぞれ沢山ある仏菩薩は与えられて、名前をいただかれているのだと私は考えています。ですから、すべての仏様、観音様も地蔵様も阿弥陀如来も、みんなお釈迦様のさとりの智慧の一部なのです。

お釈迦様のさとり

ではお釈迦様はどのようなお方だったのでしょうか。四月八日にお生まれになり、十二月八日にさとられ、二月十五日に亡くなられたと私たちの仏教では教えられています。お生まれになられたとき、七歩歩いて、「天上天下唯我独尊」と言われたことになっています。天上世界にもこの地上の世界にあっても唯一最も尊い存在なりとのたまわった。ですが、その後に、「これは最後の生まれである、再び生まれることはない」という言葉も発したことになっていますが、それは日本ではなぜか省略されています。ですが、二度と生まれない、つまりこの世で解脱する、輪廻する衆生の苦しみから解放される最後の生まれであるということが抜けてしまっては唯我独尊の意味もなさなくなります。

さとりとは、輪廻という私たち衆生の苦しみの連鎖からの解放を意味しているのです。では実際にお釈迦様がおさとりになられたときどのようにさとられたのか、古い経典・パーリ中部経典という初期仏教の経典群にある「大サッチャカ経」を紹介してみましょう。そこにはお釈迦様のさとりの真相が克明に記されています。

お釈迦様は、誰よりも厳しく苦行をしてもさとれなかったのです。おそらく苦行ではさとることはできまい、そこで、乳粥を食べつつ体力を回復されて、若き日にしたように禅定に入り、まず、自らの過去に心を集中させて、前世をそして何回もの過去世を、何千回も何万回も思い出していかれたのです。それぞれの人生での名前、食べ物、どのような苦や楽を経験したのかと思い出された。

次には他の生き物たちがどのように死に変わり生まれ変わりするのかを見て、それぞれの業によって、つまり悪業の者たちは悪処、地獄に行くのを知り、また善き人々は善処天界に生まれ変わっていく様をご覧になったと言います。さらには、煩悩について心を集中すると、これが苦である、これが苦の原因である、これが苦の滅であり、これが苦の滅尽に至る道であると知り、さらに、これらが煩悩であり、これは煩悩の原因であり、これは煩悩の滅尽であり、これは煩悩の滅尽に至る道であると知って、すべての煩悩がなくなり、心が解脱して、この生まれは尽きた、清浄なる修行は完成した、すべきことはなされたと知り最高のさとりを得られたのです。

これは、はっきりと、さとりというのは、つまり仏教とは、私たちの生き死にを通してこの世の真実を明らかにすることであると言えましょう。いかに生きいかに死すべきかということを教えるものです。日本人は、人は生まれ変わっていくと、江戸時代まではみんなそう信じて生きてきたのです。ですが、明治以降、特に開明的な学者たちの先導によって、仏教の世界観である輪廻思想が否定され、あたかも近代の仏教学に相応しくない、なきものとして日本では特にこの輪廻ということですか、衆生は六つの世界、六道に輪廻するということが説かれなくなりました。みんな死んだら仏さんだよと言われ、極楽浄土に往生するなどという教えがすばらしい教えともてはやされました。ですが、そんなに簡単なものならお釈迦様は六年も苦行する必要も無かったのですし、お大師様はじめ沢山のお祖師様方も死にものぐるいで修行する必要もなかったと思いませんか。

「葬式は要らない」という本がベストセラーになってみたりいたしました。長年、葬式仏教と揶揄され、仏教は死を説かないものだと未だに仏教学者でも言う人がいます。ですが、お釈迦様のさとりの真相に明らかなように、そのとき他の生き物たちの生き死に、自らの過去世を何度もご覧になってさとられていくのです。仏教徒が亡くなればどの国のお坊さんもお葬式をしてあげています。もちろん、法事もあります。

死とは何か 葬式とは 臨死体験

では死をどのように仏教はとらえているのでしょうか。臨死体験という現象があります。ご存知ですね。かれこれ20年前ほどになりますかテレビでも取り上げられてブームになりました。病気や事故で仮死状態になった人が、身体から心が抜け出て外側から自分を見たり、さらに先に死の世界にまで行ってしまいまた戻ってくるという体験のことです。昔四国遍路の帰りに出会った人は、バイクの事故でぶつかった瞬間に心が身体から出て、身体が空中に投げ出され転がっていく様子を上の方からスローモーションのように見ていたそうです。気がついたら病院のベッドの上だったと。

また今年のお盆のお参りで、ある檀家さんが大腸のポリープの手術で麻酔をかけ手術中に、気がつくとそれはそれはきれいなお花畑にいて、三途の川が見え、沢山の人たちが向こう側で手を振っていたのですが、おーい芋を見に行けよという亡くなった檀那さんの声がして、こちらの世界に帰ってきたと笑い話のような話を真顔でされていました。ちょうど一週間前に芋の苗を畑に植えたところだったそうです。芋を植えてなかったらそのまま逝っていたかもしれない、ですけれど死ぬのが怖くなくなったとも言われていました。

ですから、死とは、身体の寿命が終えて、心が身体から抜け出てそのまま逝ってしまった状態のことを言うのです。体と心の分離です。身体は荼毘に付されますが、心は49日の後、来世に逝きます。衆生世界は六つの世界があり、最高のさとりを得られ悩み苦しみがなく再生のエネルギーのない人以外はみんな、この地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の世界を行きつ戻りつしながら輪廻を繰り返すのです。

ではお葬式とは何かと言えば、来世にも仏教という確かな教えを得られるように戒名を受け取っていただき、来世も仏教徒に生まれるように導き、亡くなられた方の生前の善い業、たくさんの功徳に加え、遺族親族が功徳を手向けてよりよいところへ逝って、たとえ何度生まれ変わってもお釈迦様のようなさとりを得られるようにと願う、とても大切な儀式だと私は考えています。

功徳大きい勤行次第

それでは、その場合の功徳とは何でしょうか。どんなことでも善いことをされた功徳を回向してあげたらよいのですが、お通夜や法事では仏前勤行次第を読みます。実はこの勤行次第を読むというのが誠に功徳あるものだと思います。皆さん法事などで読むとき誰のために勤行次第を唱えてますか。なにげに、故人のために読んであげなくてはいけないから読んでいるという方のあるかもしれませんが。本当は読んでいる方にとって絶大な功徳があるからこそその功徳を回向することができるのです。ですから、最後にこの功徳を以てあまねく一切に及ぼし・・・とある訳です。

礼拝は先ほど申しましたように、他の神様や霊能者のような訳のわからない人ではなく、お釈迦様をこそ自分の間違いない理想の尊い敬うべきお方としてきちんと位置づけていることを確認する意味があります。礼拝は敬うことを形に表すことですが、敬うべきものがあるというのは幸せなことです。敬うべきものが見つかりそれが間違いのない存在であると確信できるというのもとても幸せなことです。

懺悔は、無始よりこのかた貪瞋癡の煩悩にまとわれて・・・とあるように、自らを振り返り、自分を見つめる、知るということがまず最初に大切だということですね。三宝帰依は、敬うべき仏様とその教えとその教えに生きる仲間たちを敬い尊んで、生き方歩み方を学んでいくことを意思表示することです。

言い換えますと、仏様を最高の理想として人生の目標を定め、生きていくことを表明するということです。簡単に言うと最高の目標を仏様のさとりに置きますということなのですが、何でと思われる方もあるかもしれません。人生の目標といえば、いろいろ皆さんあるわけですから、何でいまさら仏様なのかと思われるかもしれません。

が、たとえば、皆さん亡くなった方をどこに逝って欲しいと願いお葬式をし法事をしていますか。みんな故人の成仏のため、菩提のためと願いますが、それは、本当は死んでからでいいというものではありません。生まれ変わりしてきている私たちには前世の家族がいて、おそらくきちんと菩提を願って法事をしてくれているのではないかと考えられます。であるなら、私たちも、今生でしたいこと、人生の目標はいろいろと別にあったとしても、何度も生まれ変わる先にやはり菩提、さとりですね、仏様のような最高のさとりに至ることをやはり人生の最終目標にしなくてはいけない、それが仏教徒の生き方と言えるのではないかと思っております。

そう思っていただいてこの勤行次第をお唱えしますと、誠に意味深い、大変な功徳あるお唱えとなるのだと思います。十善戒も大切な生き方が述べられています。そして、発菩提心真言ですね、まさに皆さんこう唱えておいでです。「白浄の信心をおこして無上の菩提を求む願わくは自他もろともに仏の道をさとりて生死の海を渡りすみやかに解脱の彼岸にいたらん」と。皆さんそうお唱えになられているのです。だから、仏様のさとりに向かって生きるということ、ここにおられる皆様はそう既に何度も宣言しておられる。是非その道の上にあると考えて、そのための仏壇であり、勤行次第であり、お寺であると認識をあらたにして欲しいと思います。

そうして初めて仏飯を差し上げたり、勤行次第をお唱えすることが自分自身にとっても亡くなった精霊のためにも意味ある立派な行為であると思えるようになります。毎日とても善いことをして、少しずつでも功徳を積む、1歩でもさとりに近づいている、それは自分自身の来世のためでもあると、そう思えればとても幸せを感じることができるのではないかと思います。

災害について

まだ少し時間があります。震災があり、災害が続いています。天災ではありますが、人災という人もあり、天罰だなどと言う人もあります。どんなことがあっても、それも仏教の真理の中のこととして仏教の教えによってすべて説明できなくてはいけないのだと思っております。この世のすべてのことは無常であり、苦であり、無我であるとお釈迦様は説かれているわけです。それはなぜかというに、すべての現象は縁りて起こる、原因があって結果する、すべてのことに必ず原因があるのだということなのです。

いろいろな原因が考えられるでしょう。仏教は人の心の教えです。現地で家を流されたり、身近な人を亡くした方もたくさんいます。その人たちがもしそのことで悲嘆に暮れ万が一にも自殺をしたり、生きる意欲を失うようなことがあればそれは仏教の責任です。今日縷々述べてきたように私たちには別の次元の最終目標がしっかりある、この世間のことではなくて、娑婆世界を超越した生き方こそ本来の生きる目的だと捉えられれば、何があっても、少し余裕をもって冷静に対処していけるのではないかと思えるのです。そういうときのためにも、私たちは、いつも別次元の頭をもっていて欲しいとも思えるのです。

いかがでしたでしようか。今日はほんの入口の話しかできませんでしたが、仏教はその中身がとても深くどんなことにも役に立つ応用範囲の広い教えです。どうか身近に感じていただいて、仏壇やお墓にお参りしたりすることの意味を感じて一つ一つの意味を学んでいって欲しいと思います。学ぶほどにその奥の深さが解ってまいりまして、楽しくなります。そうした教えを学ぶ場としてお寺もあります。学び、そして、たくさんの徳を積み、お寺を大切に、益々ご精進いただければありがたく存じます。


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コメント (3)
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