活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

ド・ロ神父と石版印刷

2007-02-05 12:50:04 | Weblog
 遠藤周作文学館をあとに、ド・ロ神父記念館に向かいました。記念館の手前の坂に、少年が神父にまつわりついているほほえましい像がありました。
 記念館の建物は木骨レンガ造りで、明治時代の創建当時そのままに復元した文化財的な建物です。
 入館すると、上がりかまちに古びたオルガンが置いてあり、シスターの方が演奏してくださいました。

 ところで、マルコ・マリ・ドロ神父は1840年にフランスのノルマンデーに貴族の
子孫として生まれました。神父は「石版印刷」の技術を身につけていたことから、
1868年(慶応4)28歳で宣教師として来日するや、長崎の大浦天主堂に石版印刷所を設けたといいます。
 徳川家茂にアルバート伯爵から石版の印刷器が献上されたのが、1860年、はじめて印刷をしてみたのが、1873年といいますから、実際には、このド・ロ神父が日本の石版印刷の始祖かもしれません。

 彼は大浦でも、転勤した横浜でも印刷事業に力を入れましたが、1879年(明治12)に外海に着任すると、印刷だけではなく、衣食住すべてにわたって村民の指導にあたりました。織物・イワシ網・パン・マカロニ・ソーメンなどの授産事業や製粉・
茶園・道路建設など、1914年に没するまで、手がけた仕事は限りがありません。

 話は戻りますが、印刷と宗教とは密接な関係があります。宗教が印刷を手段につかって、一人でも多くの人に信仰にかかわる情報をはやく、的確に、大量に、手軽に伝えたかったからでありましょう。このド・ロ神父のことも日本の印刷文化史の
うえで、もっと調べなくてはいけません。
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外海の歴史民族資料館で

2007-02-05 11:28:04 | Weblog
 活版印刷紀行、とりわけ、島原や天草でキリシタン版の時代を追っていますと、
些細なことが気になります。
 たとえば、「時間」です。キリシタン版よりもはるかに、現在に近い江戸時代に、「六つ」だ「八つ」だというような区切りで時間管理がされていたことは 時代小説や時代劇で私たちがよく知るところです。
 ところが、それより、100年以上も前、キリシタン版のころ、少年たちが学ぶセミナリヨの時間割では、「四時起床」だとか「八時晩祷」などと、宣教師がもたらしたヨーロッパ渡来の時間の区切りでガッチリ運営されていました。
 年号表記でも、キリシタン版には、「御出世以来千五百九拾九年(『ぎゃどぺかどる』)などと、日本の元号以外にキリスト起源を表紙にかならず入れています。
  
 しかし、1638年(寛永15)の「ナタルの日」、クリスマスに、島原の乱が鎮圧され、約百年に及んだキリシタンの時代のが終わると、すべてがもとの木阿弥になってしまったのです。
 
 外海町の出津文化村に「歴史民族資料館」がありますが、ここには、かくれキリシタンの資料がたくさんあります。
 とくに、むごいキリシタン弾圧の火あぶりですとか、斬首、算木責めなどの刑罰や拷問の絵には思わず顔をそむけたくなります。

 そうしたなかに、オラショを克明に手書きしたものもありました。つまり、いったん印刷されたキリシタン版に接していた人たちの子孫がふたたび、「手書き」で
信仰と向かい合わねばならなかったのです。
 いったん手に入れた16世紀のヨーロッパ直送の文化が活版印刷追放の1614年(慶長19)ごろから、ほとんど壊滅状態にさせられたのです。

 
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