遠藤周作文学館をあとに、ド・ロ神父記念館に向かいました。記念館の手前の坂に、少年が神父にまつわりついているほほえましい像がありました。
記念館の建物は木骨レンガ造りで、明治時代の創建当時そのままに復元した文化財的な建物です。
入館すると、上がりかまちに古びたオルガンが置いてあり、シスターの方が演奏してくださいました。
ところで、マルコ・マリ・ドロ神父は1840年にフランスのノルマンデーに貴族の
子孫として生まれました。神父は「石版印刷」の技術を身につけていたことから、
1868年(慶応4)28歳で宣教師として来日するや、長崎の大浦天主堂に石版印刷所を設けたといいます。
徳川家茂にアルバート伯爵から石版の印刷器が献上されたのが、1860年、はじめて印刷をしてみたのが、1873年といいますから、実際には、このド・ロ神父が日本の石版印刷の始祖かもしれません。
彼は大浦でも、転勤した横浜でも印刷事業に力を入れましたが、1879年(明治12)に外海に着任すると、印刷だけではなく、衣食住すべてにわたって村民の指導にあたりました。織物・イワシ網・パン・マカロニ・ソーメンなどの授産事業や製粉・
茶園・道路建設など、1914年に没するまで、手がけた仕事は限りがありません。
話は戻りますが、印刷と宗教とは密接な関係があります。宗教が印刷を手段につかって、一人でも多くの人に信仰にかかわる情報をはやく、的確に、大量に、手軽に伝えたかったからでありましょう。このド・ロ神父のことも日本の印刷文化史の
うえで、もっと調べなくてはいけません。
記念館の建物は木骨レンガ造りで、明治時代の創建当時そのままに復元した文化財的な建物です。
入館すると、上がりかまちに古びたオルガンが置いてあり、シスターの方が演奏してくださいました。
ところで、マルコ・マリ・ドロ神父は1840年にフランスのノルマンデーに貴族の
子孫として生まれました。神父は「石版印刷」の技術を身につけていたことから、
1868年(慶応4)28歳で宣教師として来日するや、長崎の大浦天主堂に石版印刷所を設けたといいます。
徳川家茂にアルバート伯爵から石版の印刷器が献上されたのが、1860年、はじめて印刷をしてみたのが、1873年といいますから、実際には、このド・ロ神父が日本の石版印刷の始祖かもしれません。
彼は大浦でも、転勤した横浜でも印刷事業に力を入れましたが、1879年(明治12)に外海に着任すると、印刷だけではなく、衣食住すべてにわたって村民の指導にあたりました。織物・イワシ網・パン・マカロニ・ソーメンなどの授産事業や製粉・
茶園・道路建設など、1914年に没するまで、手がけた仕事は限りがありません。
話は戻りますが、印刷と宗教とは密接な関係があります。宗教が印刷を手段につかって、一人でも多くの人に信仰にかかわる情報をはやく、的確に、大量に、手軽に伝えたかったからでありましょう。このド・ロ神父のことも日本の印刷文化史の
うえで、もっと調べなくてはいけません。