活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

長崎港を見下ろしてスタート

2007-02-25 18:58:21 | Weblog
 長崎を抜きにしては語ることが出来ないのが日本の活版印刷なら、その歴史は長崎港の存在を抜きにして語ることは出来ません。
 なぜなら、最初の活版印刷は、キリシタン、長崎港、南蛮船によるものでしたし、2番目明治の活版印刷を生んだ本木昌造は長崎で三代続く幕府のオランダ通詞で、グーテンベルクよりも前に活字を作ったといわれているオランダ人コステルの伝記を読んで、活字に興味を持ったといいます。つまり、長崎港、出島、通詞がもたらしたといっても過言ではありません。

 そこで、みなさんにおすすめしたいのは、長崎に足を踏み入れたら、まず、ロープウェイで稲佐岳の展望台に行って眼下の「長崎」全体を眺めて見ることです。
 とくに、そんなわけですから、「長崎港」には敬意を表したいものです。
 その長崎港が、約4キロの細長い入り江のドンズマリにあることがわかります。
周りは稲佐岳、金比羅山、彦山など小高い丘や山がつづき、浦上川、中島川、大浦川などの扇状地の高台に町が広がっているのも見てとれます。

 展望台の東、長崎港の対岸が長崎の中心地で、JR長崎駅から埠頭にかけての一帯や左手の桜町の市役所から右手、外浦町の県庁までの中島川に区切られたあたりが、昔の「内町」、16世紀の長崎発祥の地にあたるでしょうか。

 さらに、昔の「外町」、諏訪神社の森のあたりや、中島川の対岸の「出島」やそのむこうの「丸山」あたりもよく見ておきましょう。もっとも、かなりの部分が、キリシタン時代は海だったのではないでしょうか。その辺になると、地理に明るい土地の方同道でないと、わかりませんが。

 ただ、稲佐岳まで行かなくとも、長崎造船所のあたりはグラーバー園からでもよくみえますし、出島や港の先の細長い入り江の地形は、県美術館の屋上からでも、見ることが出来ます。(写真参照)
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長崎を抜きにして語れないものは

2007-02-25 17:33:23 | Weblog
 あなたが、もし、「長崎を抜きに語れないものはナーニ?」というクイズを出されたら、実に、いろいろな答えが頭の中を駆け巡ることだろうと思います。
 私だったら真っ先に「日本の活版印刷の歴史」と答えるでありましょう。我田引水?おもしろくもない?マア、マア。聞いてください。

 ポルトガルのリスボンを船出して、グーテンベルク方式の活版印刷機、金属活字など印刷要具を積んだ船が、ゴア、マカオを経由して長崎港に入ったのは、1590年(天正18)6月のことでした。
 そして、島原の加津佐でキリシタン版の印刷所がオープンされました。折悪しく
切支丹弾圧の渦に徐々に巻き込まれ、印刷所はコレジヨやセミナリヨの移転とともに天草に越しますが、ついには、振り出し、長崎に戻ることになります。1597年(慶長2)のことです。

 それから、弾圧のために、いよいよ、立ち行かなくなるまで16,7年の間、日本最初の活版印刷は長崎で多数の本を刊行します。
 『落葉集』、『日葡辞書』、『日本大文典』などの書名からわかるように、長崎で出版されたものの多くが、日本文字を使った日本文学や日本語研究に使われるものでした。
 音符の入った『サカラメンタ提要』も長崎で印刷されております。つまり、画数の多い日本文字を鋳造したり、色刷りの音符本を手がけるほどに印刷技術にアブラがのってきたのがキリシタン版の長崎時代だったのです。

 しかし、1613年(慶長18)ごろ長崎から活版印刷は追放されてしまいます。
そして、奇しくも同じ長崎で本木昌造が金属活字をつかった活版印刷を始めるまで
250年もの間、活版印刷は長い「眠り」に入ってしまうのです。

 
 

 
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