私は天草紀行のときに、下田温泉の望洋閣に厄介になります。
目の前が天草灘というオーシャン・ビューが気に入ってのことですが、ホテル手前の高台から見る夕日もここに泊まる楽しみのひとつです。
その高台に、左の「五足の靴」の記念碑があります。
五足の靴とは、1907年(明治40)の夏、新詩社の主宰者与謝野鉄幹に率いられてこの地を歩いた北原白秋・木下杢太郎・吉井勇・平野万里の後年、文学界に名を残した4人、つまり、一行5人の靴のことで、帰京後、東京二六新聞に「五足の靴」
と題した紀行文を発表しております。与謝野は当時35歳、あとの4人はまだ、23,4の学生でした。
北原白秋の『天草雅歌』や『邪宗門』、木下杢太郎の『天草組』などを挙げるまでもなく、彼らは「南蛮」に憧れ、禁教時代の痛みに心を寄せての旅立ちだったと思われます。
明治40年といいますと、日本の活版印刷が、ようやく、情報伝達のメディアとして活況を呈すようになったころ、活版印刷の組合がしっかり組織化されたころですから、五足の靴紀行や南蛮情緒が活字で発表され、人々の関心をひいたのは不思議ではありません。
実は、この碑の奥に展望台が設けてある「五足の靴散歩道」があったり、同名の
雰囲気のいいホテルもあります。
目の前が天草灘というオーシャン・ビューが気に入ってのことですが、ホテル手前の高台から見る夕日もここに泊まる楽しみのひとつです。
その高台に、左の「五足の靴」の記念碑があります。
五足の靴とは、1907年(明治40)の夏、新詩社の主宰者与謝野鉄幹に率いられてこの地を歩いた北原白秋・木下杢太郎・吉井勇・平野万里の後年、文学界に名を残した4人、つまり、一行5人の靴のことで、帰京後、東京二六新聞に「五足の靴」
と題した紀行文を発表しております。与謝野は当時35歳、あとの4人はまだ、23,4の学生でした。
北原白秋の『天草雅歌』や『邪宗門』、木下杢太郎の『天草組』などを挙げるまでもなく、彼らは「南蛮」に憧れ、禁教時代の痛みに心を寄せての旅立ちだったと思われます。
明治40年といいますと、日本の活版印刷が、ようやく、情報伝達のメディアとして活況を呈すようになったころ、活版印刷の組合がしっかり組織化されたころですから、五足の靴紀行や南蛮情緒が活字で発表され、人々の関心をひいたのは不思議ではありません。
実は、この碑の奥に展望台が設けてある「五足の靴散歩道」があったり、同名の
雰囲気のいいホテルもあります。