『衣道楽』きものどうらくと読みます。明治39年、松坂屋が出したPR誌です。
これを出したのは、松坂屋百貨店の創業者の第12代伊藤次郎左衛門佑昌の4男、
第13代伊藤次郎左衛門佑民(すけたみ)で、幼名は守松でした。
彼は1909年(明治42)、渋沢栄一を団長として、東京・大阪など6大都市の
経済人を中心にした民間人数十人が3か月にわたってアメリカ各地を訪問した渡米
実業団に、33歳の若さで名古屋から参加しました。
それよりも62年前の岩倉視察団とは違い、1908年に訪日して来た米国実業団
との交歓・交流の色合いもあって全米で大歓迎を受け、かなり熱心に民間経済外交を
進めたと視察団でした。
さて、その視察団に伊藤銀行取締役の肩書で参加した守松は、そのとき、家業であ
る伊藤呉服店の経営を任されておりましたからアメリカのデパートから学ぶことが多
かったに違いありません。
その証拠に帰国した明治43年3月1日に、名古屋の栄町にデパートを建築するこ
とにしました。呉服店からデパートへ、大英断でした。当時、東京上野も名古屋も
いとう呉服店でしたから大改革だったといえます。
渡米実業団参加や渋沢栄一の影響もあってか、その後の彼は、関東大震災のときの
活躍、銀座に初めての百貨店進出などめざましい動きを見せました。
PR誌『衣道楽』を出したのも30歳になるかならぬときでしたから着眼点が良い
人だったといえましょう。
私事になりますが、実は私自身が昭和39年から昭和48年まで、松坂屋のPR誌
『新装』の制作にたずさわりました。大正から続く歴史のあるPR誌だっただけに
姿を消したのは残念です。次回もこの話つづけます。
これを出したのは、松坂屋百貨店の創業者の第12代伊藤次郎左衛門佑昌の4男、
第13代伊藤次郎左衛門佑民(すけたみ)で、幼名は守松でした。
彼は1909年(明治42)、渋沢栄一を団長として、東京・大阪など6大都市の
経済人を中心にした民間人数十人が3か月にわたってアメリカ各地を訪問した渡米
実業団に、33歳の若さで名古屋から参加しました。
それよりも62年前の岩倉視察団とは違い、1908年に訪日して来た米国実業団
との交歓・交流の色合いもあって全米で大歓迎を受け、かなり熱心に民間経済外交を
進めたと視察団でした。
さて、その視察団に伊藤銀行取締役の肩書で参加した守松は、そのとき、家業であ
る伊藤呉服店の経営を任されておりましたからアメリカのデパートから学ぶことが多
かったに違いありません。
その証拠に帰国した明治43年3月1日に、名古屋の栄町にデパートを建築するこ
とにしました。呉服店からデパートへ、大英断でした。当時、東京上野も名古屋も
いとう呉服店でしたから大改革だったといえます。
渡米実業団参加や渋沢栄一の影響もあってか、その後の彼は、関東大震災のときの
活躍、銀座に初めての百貨店進出などめざましい動きを見せました。
PR誌『衣道楽』を出したのも30歳になるかならぬときでしたから着眼点が良い
人だったといえましょう。
私事になりますが、実は私自身が昭和39年から昭和48年まで、松坂屋のPR誌
『新装』の制作にたずさわりました。大正から続く歴史のあるPR誌だっただけに
姿を消したのは残念です。次回もこの話つづけます。