活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

大久保彦左衛門と大岡越前

2012-06-26 17:35:58 | 活版印刷のふるさと紀行

 梅雨の合間、ひさしぶりに御茶ノ水を歩きました。わが青春の墳墓の地というとおおげさですが、駿河台は社会人第一歩、出版社づとめの日々を10年近く過ごしたところですから思い出が詰まっています。

 その御茶ノ水もすっかり変わっています。日大病院の隣に今のような大きな杏雲堂病院なんかありませんでした。その杏雲堂の植え込みに「大久保彦左衛門邸跡」のモニュメントをみつけ、「こんなものはなかったぞー」と驚きました。

 新撰組の近藤勇や土方歳三の名前なら知っていても大久保彦左衛門となると若い人にはわからないかも知れまん。 ですが、私には親しみを感じる徳川家康のご意見番、大久保彦左衛門忠教(ただたか)です。JRの東海道線に「幸田」という駅があります。名古屋と豊橋の中間、岡崎から東へ一つ目で、そこから私の母校岡崎高校に通学している級友の自慢の種が「幸田が彦左衛門の生地」だったからです。一心太助とのやりとり、タライに乗っての登場、信義一筋、三河武士の典型のような礼讃話も聞かされました。

 おそらく原典は『講談全集』だったのに違いありませんが、彦左衛門が書いた『三河物語』や最近では宮城谷昌光さんの『新三河物語』を読むと彼の徳川家に対する忠勤ぶりや一徹ぶりに私も感心させられたのは事実です。

 ところで彦左衛門は今から350年ほど前の人、二千石の旗本でした。しかし、この駿河台の屋敷跡を信じていない人もいるようです。そういえば、私が子どもの頃、岡崎で大岡越前守忠相(ただすけ)邸跡という標柱を見た記憶があります。しかし、名奉行大岡越前の話に岡崎が登場したことを聞いたことがありません。不思議に思っておりましたら、彼は江戸生まれ、ただ岡崎の西大平藩の藩主であることは間違いがなく、旗本から一万石の大名にまで昇進したが、宗家の土地、岡崎には生涯、足を踏み入れたことはないらしいというのです。

 大岡越前の活躍したのは彦左衛門より百年あと、今から260年ほど前のはず。それにしても、日本の場合、2.3百年で痕跡がわからなくなるとは口惜しい話ではありませんか。








 

 

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