活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

長崎・五島のキリシタン史3

2015-01-24 15:47:32 | 活版印刷のふるさと紀行

 五島にキリスト教が根付いたといっても、日本で最初に洗礼を受けてキリシタン大名となった大村純忠の領内のように、領主が率先して信者になり、家臣団や領民がそのあとに続くような形にはなりませんでした。アルメイダや平戸の琵琶法師といわれたロウレンソ了斎が播いた種が順調に育ったとはいえないのです。

 五野井さんによると障害として立ちはだかったのは領主純玄のキリシタンの迫害が教会の焼き打ちや洗礼の禁止にまで及んだことだといいます。それでも秀吉の死去前後には五島のキリシタンは2000人以上を数えるようになったといいますから島民の信仰への取り組みぶりがわかります。しかし、それは」長続きしません。1622年の来島イタリア人神父の処刑を皮切りに厳しい弾圧が始まったからです。キリシタンの摘発、捕縛、処刑、密告に脅え、心ならずも踏絵による宗門改めに屈す島民が続出、1630年代のなかばには五島にキリシタンはいなくなったと思われます。

 五島のキリシタンの歴史が特筆されるようになるのは、1797(寛政9)年、ときの領主五島盛運が大村領主に領民の移住を申し入れたときからです。わずか3年ほどの間に3000人ほど五島に移住してきた大村領外海(そとめ)の農民がキリシタンだったために、160年間穴のあいていた五島に、ふたたびキリシタンの祈りが唱えられるようになったのです。 けれども厳しい弾圧下です。それが見逃されるはずはありません。捕縛され、入牢を強いられたり、仏教徒たちの迫害にも耐えねばなりませんでした。

 「切支丹禁制」の高札を明治政府がはずしたのが1873年、1877年に五島にふたたび宣教師が来島、宣教が開始されました。1880年の福江島、堂崎天主堂を皮切りに、久賀島の浜脇教会、福江島玉之浦の井持ヶ浦教会など続々と教会が建つようになります。かつてこのブログで紹介したように鉄川与助による教会群が姿をあらわすようになったのは1910年代からです。また、いずれ稿をあらためて記すことにしますが、外海から移り住んだ潜伏キリシタンの影響でその子孫にあたるみなさんが五島の隠れキリシタンとして伝統的な信仰儀式をいまも続けておられます。

 いずれにしても「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」がユネスコの世界遺産になり、記録の少ない五島のキリシタン史にもっと光が当たることを望みますし、まだ、訪れたことのない方には五島訪問をおすすめいたします。

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