日曜日は母の一周忌でした。
この一年間、遺品整理・実家を売り出し
実家も幸いなことにすぐに売れ
自身が巣立ってから建てた家なのでさっぱり縁が切れました。
少しはなれたところに父が入ってるだけのお墓があります
月命日にお花を上げに行くくらいです
1月にお墓へ母の骨入れをするそうです
跡継ぎたちはその墓に入らないので早晩墓じまいをすると話がついてます
今から三代前、私の曾おじいさんは伊達藩の家老
お城で家老でござーいと暮らしておられたのに。
その末裔は墓守すらいない
こういう流れを見ますとなんかとても無常な気持ちになります。
家長制度が崩れ今風の平凡な家族のあり方かもしれませんが・・
でもせめて生きてるうちに精一杯生き抜こうと思う気持ちがわいてきます
私も母の遺品整理にお手上げでしたので終活に本格的に体力のあるうちにしなくてはなりません
母が一本一本つむいでくれて、織と染めを職人に頼み出来上がったつむぎの着物
もう着ることは無いだろうナットも思います。
留袖・喪服そして若い頃の振袖・訪問着もこれでてばなすか・・と
相方の好きなさめ小紋の着物。
もう着物はレンタルのほうが私には管理しやすいです
管理しやすいシンプル生活のための終活をすこしづつする区切りですね
いろんなものにそれぞれの両親の思いがはいっています
踏ん切りに対して理屈ではシンプルがいいのがわかっていても難しいです。
でも一周忌ってそういう区切りのときなのかなと思った次第です
シンプル生活への一里塚かな
明日あると思う心のあだ桜。夕べに嵐の吹くもあらなん
<明日があるとおもっていると夜中に嵐が来て花を散らし花を見れなくなることもあるの意味?>
おじいちゃんが聞かせてくれた言葉です。
あせらずでもすこしづつです
読んでくださってありがとう