
今日は名古屋は昨日とうって変って、花曇り!
昨日の朝は伊吹山、御岳、遠く私が勝手に白山と決めている白山も、ブルーの雪景色の中で浮かんでいました。
今日の新聞に「御成り街道、金崋山」について記事がのっていました。

織田信長が、毎夜名古屋の西、清州でやぐらに上がり、北を眺めて天下征服の第一歩の美濃の攻略の情熱を燃やしていた。
奥方(美濃の城主、斎藤道三の娘)はあやしむほどであったという。
なんと、我が家の私の部屋からも、この金崋山が見えるのです。
我が家から直線距離で50キロくらいでしょうか。
濃尾平野にあっても、329メートルほどの高さなので、慣れないと識別しづらいです。
わかったのは、夏に花火が上がります。 花火は、ほんとにマッチ棒の先くらいに見えるのですが、「ああ~あれが、長良川の花火、そうすると手前が金崋山」とわかったのです。
わたしは、小学校から高校まで、毎日金崋山を見てそだち、夏にはそのふもとをながれる、長良川の水泳教室に通っていました。
岐阜の街は小さくて、金崋山を中心として、城下町がひろがっていたのです。
子供のころ、金崋山の下の岐阜公園では春に写生大会が行われました。
私は、毎年参加。
しばらくすると、入賞作品の展覧会があり。
賞状や賞品が、全校生徒の前でもらえるのがうれしかったのです。
ほかにも、信長と斎藤道三の戦いのときに、大勢の人が犠牲になったお寺の床板が削られて、それを天井板にした血天井。
追われた女房たちがおおぜい、飛び込んだので、戦前まで時々、そのくしなどが上がッたという池など、遠足で訪れれたりしました。
そうやって岐阜の人たちには、信長の天守閣はなくなってしまっても、とってもなじみの深いお城だったのです。
昭和31年市民の寄付でお城が再建されました。
小学生もおこずかいを持ち寄ったと聞いております
金崋山は国有林で天然林なんですよ。
私が大学で岐阜を離れ、帰ってくるとき
、名鉄電車は新岐阜駅近くは、高架になり、カーブになり、終点に近いので、スピードを落とします
。すると目の前に金崋山と岐阜城が見えて、「ああ~帰ってきたな~」とうれしく思ったものでした。
今頃長良川の堤防包みも桜が咲き乱れているでしょうね~
読んでくださってありがとう!
