永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(66)

2008年06月03日 | Weblog
6/3  

【賢木】の巻 (14)  

 源氏は二条院に帰られて、ご自分のお部屋に籠もっておいでです。春宮の第一のご後見人である中宮が出家され、その上ご自分が出家などして、春宮をお見捨てしては……と思い悩むことがつきません。藤壺と一緒に王命婦も出家されました。
 藤壺は尼となられてかえって源氏に対しての遠慮も薄らいで、お話かけになることもあります。
 源氏は尼になられた藤壺に、以前と同じ思いを持っておられることは、とんでもないことなのに。

 年が代って、内裏では正月の行事が華やかに行われます。
正月七日の白馬節会(あおうまのせちえ)
〃 十四日、男踏歌(おとことうか)
〃 十五日、女踏歌(おんなとうか)
〃 二十一日、内宴(ないえん) 仁寿殿で文人を召して詩会が行われ、後に賜宴がある。
〃 二十一日、白馬を内裏に引き、式が終わると中宮職へも進覧する。

「白馬ばかりぞ、なほひきかへぬものにて女房などの見ける。所狭う参りつどひ給ひし上達部など、道をよぎつつひき過ぎて、むかひの大殿につどひ給ふを、……」
――白馬のときでしたよ、やはり昔のままに相変わらず引いてきましたのを、女房たちは見物しました。大勢の人々が上達部もご一緒にお出ででしたが、三條の藤壺の尼邸の道は避けて、向かいにある右大臣邸にお集まりでした。(世間とはこうしたものだと心に染みておりますときに、千人にも匹敵しそうなご様子で源氏が参られましたのを見ると、女房たちはわけもなく涙ぐまれるのでした)――

 源氏は、昔とすっかり変わった御仏本位の尼君のお住まいに、まず、涙ぐまれます。
 
 春の除目になって、藤壺尼君には何のご沙汰もございません。当然加階すべき経歴の点からも、宮の御賜りにても一切なく、嘆きの多いことです。

 藤壺中宮は、出家を口実に御俸禄を取り上げられたりする筈のものではないのにと、なにもかも諦められた世の中ながら、憤りに堪えない折りもございますが、
「わが身をなきになしても春宮の御代をたひらかにおはしまさばとのみ思しつつ、御行ひたゆみなく勤めさせ給ふ」
――ご自分はどうであっても、春宮の御代が平穏でいらっしゃればとだけ念じて、お勤めを熱心になさいます――

 世間では、人知れず春宮のご出生を心ひそかに疑い恐れ申されることもあり、源氏も同様に仕方のないことにおもわれます。源氏に奉仕する人々にも辛いことが多く、
「世の中はしたなく思されて籠もりおはす」
――源氏は世の中が不愉快で籠もっておいでです――

左大臣邸でも、同様にご沙汰がなく、みながひどく滅入っておいでです。

◆宮の御たまわり=年爵といって、名義上の地方官に相当する俸禄を、上皇、春宮、三宮(太皇太后・皇太后・皇后)等に給し、それをそれぞれの宮から奉仕の人々に賜う制。

ではまた。

源氏物語を読んできて(踏歌節会)

2008年06月03日 | Weblog
踏歌節会(とうかのせちえ)

 正月十四日(男踏歌)、十六日(女踏歌)
踏歌を奏する行事。踏歌は多人数で足を踏みならして拍子をとって歌うもの。中国から渡来して風習であるが、日本古来の歌垣(うたがき)と結びついたものと考えられている。

 正月にあたり、満月前後の夜に大地の聖霊を鎮めるもので、聖武天皇の頃には宮廷行事として行われていた。
 『西宮記』等によると、男踏歌は清涼殿で天皇の出御、舞人、歌人が楽を奏しつつ東庭に列立し、踏歌を行い、御前で祝詞を奏上する。そのあと、市中に出て、京の各所で踏歌を行い、「水馬(みずうまや)」で飲食をして休息をとり、明け方再び内裏に戻って酒饌(しゅせん)を賜り、管弦が行われて天皇より禄(ろく)を賜った。
 
 十六日の女踏歌は数十人の舞妓が紫宸殿の南庭で踏歌をする。宮中のみで市中には出ない。男踏歌は平安中期に絶えてしまい、「踏歌」といえば「女踏歌」を指すことになった。
 
 現在では正月十一日、熱田神宮で「踏歌神事」が行われている。
 
 ◆参考・写真 女踏歌の様子  風俗博物館より


源氏物語を読んできて(白馬節会)

2008年06月03日 | Weblog
白馬節会(あおうまのせちえ)

 正月七日、天皇が豊楽殿(後に紫宸殿)に出御、庭に引き出される白馬をご覧になり、群臣と宴を催す行事が白馬の節会である。中国の陰陽五行説に基づいたもので、春に陽のものを見るとその年の邪気を避けることができるとされた。春は青色(ちなみに夏は赤、秋は白、冬は黒)、馬は陽の動物とされ、両者が結びついて、春に青馬を見るようになったと考えられる。
 
 天歴のころ、村上天皇の時代に、「青馬」は文献の上で「白馬」と書かれ始める。中国では青を高貴の色とし、日本でもこれに倣ったが、国風文化の発展と共にこの頃白を最上位に置くようになり、また穢れを払う意味においては白がよりふさわしいという思想によるものと考えられる。
 
 元来、「青」の語がさし示す色は幅広かったらしく、「青馬」とはぼんやりとした灰色のような馬であって、それに「白馬」の字を、後に先述の理由によって、あて換えたとも考えられる。しかし「あおうま」の読み方は変わることがなかった。
 
◆参考・写真(これは上賀茂神社にて)とも 風俗博物館より