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【須磨】の巻 その(15)
母は「あなかたはや……」
――まあみっともない……(京の人の噂では、やむごとなき妻をたくさん持って、その上忍んで帝の御妻とも過ちをお起した「朧月夜の君のこと」方が、どうしてこんな山住みの賤しい者に、お心を留められるでしょう)――
入道は腹立たしげに、「あなたには分からないことだが、私には別の料簡がある。差し上げる用意をするように。いずれここにも来て頂こう」と、一徹者らしく言います。
母は「などか、めでたくとも、物の初めに、罪に当たりて流されておはしたらむ人をしも思ひかけむ。……」
――いくら結構なことでも、初めての結婚にどうして、罪のために流されてきた方を選ぶことがありましょう。それでも娘に心を留めてくださるならとにかく、冗談にもそんな事はあるはずがありません。――
入道は妻のことばに、ぶつぶつ言います。
「罪にあたることは、唐土にも、わが朝廷にも世に優れた人には必ずあることです。あの方をどんな方と思っているのか。光君の御母の桐壺の更衣という方は、私の叔父の按察使の大納言の姫君だったのですよ。容貌もお人柄も大層優れておいでで、宮仕えにお出になりましたところ、帝の御寵愛が並ぶ人がいないほどだったために、他の人のひどい嫉妬に早世されたのです。源氏の君が残られたことは結構なことでした。これをみても、女は心を高く持つべきなのです。私が田舎人になっているからといって、あの方はお見捨てにはなるまい。」
「このむすめ、すぐれたる容貌ならねど、なつかしうあてはかに、心ばせあるさまなどぞ、げにやむごとなき人に劣るまじかりける。身の有様を、口惜しきものに思ひ知りて……」
――この娘、ことにすぐれたご器量ということではありませんが、ものやさしく、上品で才気のあるところは、まことにやむごとなき方々に劣らないほどでございます。この方自身は、自分の身分の高くないことを良く知っていて、(身分の高い方はわたしをものの数にもお思いにならないでしょう。かといって身分相応の縁を求めることは決してしたくない。長生きをして親に先立たれたならば、尼にもなろう、海の底にも飛び込んでしまおうと、思っているのでした。)――
父の入道は、大層気を付けて娘を大切にしていて、
「年に二度住吉に詣でさせけり。神の御しるしをぞ、人知れず頼み思ひける」
――年に二度は住吉明神に参詣させ、ご霊験で娘が良縁を得るようにと、人知れず頼みに思っているのでした――
◆入道:本来は悟りの境界に入る意で、転じて出家して仏道に入った人をいう。しかし日本では、一般的に在俗のままで僧形となり、仏道を修行する篤信、強信の人をいう。
ではまた。
【須磨】の巻 その(15)
母は「あなかたはや……」
――まあみっともない……(京の人の噂では、やむごとなき妻をたくさん持って、その上忍んで帝の御妻とも過ちをお起した「朧月夜の君のこと」方が、どうしてこんな山住みの賤しい者に、お心を留められるでしょう)――
入道は腹立たしげに、「あなたには分からないことだが、私には別の料簡がある。差し上げる用意をするように。いずれここにも来て頂こう」と、一徹者らしく言います。
母は「などか、めでたくとも、物の初めに、罪に当たりて流されておはしたらむ人をしも思ひかけむ。……」
――いくら結構なことでも、初めての結婚にどうして、罪のために流されてきた方を選ぶことがありましょう。それでも娘に心を留めてくださるならとにかく、冗談にもそんな事はあるはずがありません。――
入道は妻のことばに、ぶつぶつ言います。
「罪にあたることは、唐土にも、わが朝廷にも世に優れた人には必ずあることです。あの方をどんな方と思っているのか。光君の御母の桐壺の更衣という方は、私の叔父の按察使の大納言の姫君だったのですよ。容貌もお人柄も大層優れておいでで、宮仕えにお出になりましたところ、帝の御寵愛が並ぶ人がいないほどだったために、他の人のひどい嫉妬に早世されたのです。源氏の君が残られたことは結構なことでした。これをみても、女は心を高く持つべきなのです。私が田舎人になっているからといって、あの方はお見捨てにはなるまい。」
「このむすめ、すぐれたる容貌ならねど、なつかしうあてはかに、心ばせあるさまなどぞ、げにやむごとなき人に劣るまじかりける。身の有様を、口惜しきものに思ひ知りて……」
――この娘、ことにすぐれたご器量ということではありませんが、ものやさしく、上品で才気のあるところは、まことにやむごとなき方々に劣らないほどでございます。この方自身は、自分の身分の高くないことを良く知っていて、(身分の高い方はわたしをものの数にもお思いにならないでしょう。かといって身分相応の縁を求めることは決してしたくない。長生きをして親に先立たれたならば、尼にもなろう、海の底にも飛び込んでしまおうと、思っているのでした。)――
父の入道は、大層気を付けて娘を大切にしていて、
「年に二度住吉に詣でさせけり。神の御しるしをぞ、人知れず頼み思ひける」
――年に二度は住吉明神に参詣させ、ご霊験で娘が良縁を得るようにと、人知れず頼みに思っているのでした――
◆入道:本来は悟りの境界に入る意で、転じて出家して仏道に入った人をいう。しかし日本では、一般的に在俗のままで僧形となり、仏道を修行する篤信、強信の人をいう。
ではまた。