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【須磨】の巻 その(8)
紫の上は、源氏が掻き鳴らしておられた琴や、脱ぎすてられた御衣のにおいなど、
「今はと世になからむ人のやうにのみ思したれば、かつはゆゆしうて、少納言は、僧都に御祈祷のことなど聞ゆ。」
――源氏が今にも亡くなる人のように思い込んでおられるので、かたがた不吉な気がして、
北山の僧都にご祈祷をお願いされます――
「二方に御修法などせさせ給ふ。……」
――二つのことについて御修法をなさいます。(ひとつは紫の上の悲しみを慰め、もう一つは、源氏のために悩みのない世にしてくださいと)――
紫の上は
源氏の旅先の御夜具など調整してお贈りになります。無位無冠の人となった源氏の御直衣や指貫(さしぬき)は、紋様のない御衣で、これまでと違った気がして悲しく、鏡の面影も何の甲斐がありましょう。お歳を経た方でさへこのようなことはお辛いでしょうに、お小さい頃から源氏が父君となり母君となってお育てしてこられたのですから、紫の上が恋しく思われるのは当然でございましょう。須磨は聞くところによると近いといいますが、期限の定まらぬお別れに、悲しみは尽きないのでした。
藤壺宮にとりましても、春宮のことで京を去られたことを嘆かれていますのはもちろんでございます。
「御宿世の程を思すには、いかが浅くは思されむ。年頃はただ物の聞えなどのつつましさに、すこし情けある気色見せば、それにつけて人のとがめ出づる事もこそとのみ、ひとへに思し忍びつつ、あはれをも多う御覧じ過ぐし、すくずくしうもてなし給ひしを、……」
――その上、源氏との特別のご関係をお思いになれば、どうして良い加減にお思いになれましょう。年来はただ世の人の批判を憚るあまり、少しでも情愛の気持ちをお見せしましたなら、世人からとやかく非難されるとのみ思いこまれて、ひたすら我慢されて、源氏のお気持ちをも見ぬ風に装って気強くこられましたが、(例の一件だけは源氏はお言いにならずに、こちらも人目に立たぬように隠したのでした、と、今ではあわれにも恋しく思い出されるのでした。)
尚侍の返し文は
「浦にたくあまだにつつむ恋なればくゆるけぶりよ行く方ぞなき」
――浦辺にたく海士ではないが、あまたの人に言われぬ秘密の恋なので、胸にけぶる煙は晴らしようもありません――
もちろん、こちらも中将の君の文にそっとしのばせて。
ではまた。
【須磨】の巻 その(8)
紫の上は、源氏が掻き鳴らしておられた琴や、脱ぎすてられた御衣のにおいなど、
「今はと世になからむ人のやうにのみ思したれば、かつはゆゆしうて、少納言は、僧都に御祈祷のことなど聞ゆ。」
――源氏が今にも亡くなる人のように思い込んでおられるので、かたがた不吉な気がして、
北山の僧都にご祈祷をお願いされます――
「二方に御修法などせさせ給ふ。……」
――二つのことについて御修法をなさいます。(ひとつは紫の上の悲しみを慰め、もう一つは、源氏のために悩みのない世にしてくださいと)――
紫の上は
源氏の旅先の御夜具など調整してお贈りになります。無位無冠の人となった源氏の御直衣や指貫(さしぬき)は、紋様のない御衣で、これまでと違った気がして悲しく、鏡の面影も何の甲斐がありましょう。お歳を経た方でさへこのようなことはお辛いでしょうに、お小さい頃から源氏が父君となり母君となってお育てしてこられたのですから、紫の上が恋しく思われるのは当然でございましょう。須磨は聞くところによると近いといいますが、期限の定まらぬお別れに、悲しみは尽きないのでした。
藤壺宮にとりましても、春宮のことで京を去られたことを嘆かれていますのはもちろんでございます。
「御宿世の程を思すには、いかが浅くは思されむ。年頃はただ物の聞えなどのつつましさに、すこし情けある気色見せば、それにつけて人のとがめ出づる事もこそとのみ、ひとへに思し忍びつつ、あはれをも多う御覧じ過ぐし、すくずくしうもてなし給ひしを、……」
――その上、源氏との特別のご関係をお思いになれば、どうして良い加減にお思いになれましょう。年来はただ世の人の批判を憚るあまり、少しでも情愛の気持ちをお見せしましたなら、世人からとやかく非難されるとのみ思いこまれて、ひたすら我慢されて、源氏のお気持ちをも見ぬ風に装って気強くこられましたが、(例の一件だけは源氏はお言いにならずに、こちらも人目に立たぬように隠したのでした、と、今ではあわれにも恋しく思い出されるのでした。)
尚侍の返し文は
「浦にたくあまだにつつむ恋なればくゆるけぶりよ行く方ぞなき」
――浦辺にたく海士ではないが、あまたの人に言われぬ秘密の恋なので、胸にけぶる煙は晴らしようもありません――
もちろん、こちらも中将の君の文にそっとしのばせて。
ではまた。