源氏物語を読んできて(狩衣) 2008年06月12日 | Weblog 狩衣(かりぎぬ) 身頃の両脇が広く開いた活動的な衣裳で、袖口に括くくり緒(お)をつけ、また裾括りのある指貫(さしぬき)を穿はき、公家の日常や狩猟時の行動的な衣裳として利用した。 ◆写真 狩衣姿 風俗博物館より
源氏物語を読んできて(須磨へ) 2008年06月12日 | Weblog ◆京から須磨へ 源氏はどういう行路で須磨へ行ったか 源氏は旅の通例に従って夜のまだ明けきらぬ暗いうち「夜深く」二条院を出て、何とも特に語られていないが、網代車で質素にやつして出発したことだろう。供回りは、惟光・良清・前右近将監等の四、五人が付き従ったが、その人たちは何に乗って行ったものだろうか。 二条大路を西に向かい、京外に出て、桂川から舟に乗った。桂川を下り、山崎で宇治川・木津川と合流して淀川を下り難波まで行ったのだろう。 そこからさらに海路をとり、風にまかせて須磨の浦まで行ったようだ。春三月の「日長きころなれば、追風さへそひて、まだ申の刻(午後4時ころ)ばかりに、かの浦に着きたまひぬ」とあった。およそ12時間くらいで着いたものであろうか。「延喜式」によれば、播磨国国府まで海路で8日と規定されているのだが、ずいぶんと早い到着である。 ◆参考と引用 :渋谷栄一著(C) 源氏物語の世界/コラム ◆写真 宇治川
源氏物語を読んできて(76) 2008年06月12日 | Weblog 6/12 【須磨】の巻 その(6) 「大方の世の人も、誰かはよろしく思ひ聞えむ。七つになりたまひしこのかた、帝の御前に夜昼侍ひて、奏し給ふことのならぬはなかりしかば、この御いたはりにかからぬ人なく、御徳をよろこばぬやはありし。……」 ――世間の人々も、誰がこのことを良いことと思うでしょう。七歳の頃から帝のお側に昼夜を問わずお仕えになって、源氏が奏上されることで通らぬことはなかったので、そのご恩を蒙むらなかった人はなく、ご恩恵を喜ばないものがいたでしょうか。(今はご立派になっている上達部や弁官は言うに及ばず、下級の者たちも大勢おりましたが、恩を忘れた訳ではないでしょうが、時勢に遠慮して、源氏邸に寄りつく人もおりません。)―― 「世ゆすりて惜しみ聞え、下には公を謗りうらみ奉れど、身を棄ててとぶらひ参らむにも何のかひかや、と思ふにや……」 ――世を上げて惜しみもし、心中朝廷を非難申しあげるようですが、一身を忘れてお見舞い申したとしても、何になるかと考えるのでしょうか。(人聞きの悪いほど恨めしく思われる人が多く、世の中は味気ないものだと、何かにつけて源氏はお思いになります)―― この日は紫の上とゆっくりと物語などなさって、夜遅くに出発されます。狩衣に装いを質素にして 源氏「月出でにけりな。なほ、すこし出でて見だに送り給へかし」 ――月が出たようですね。やはりもう少し端に出て、見送りだけでもしてください―― と、源氏は御簾を巻き上げて、お誘いになりますと、紫の上は泣き沈んでいらっしゃいましたが、いざり出てお出でになりました。 月影がしみじみとした風情をただよわせておりました。 「明けはたなば、はしたなかるべきにより、いそぎ出で給ひぬ」 ――すっかり夜が明けてしまってはきまりが悪いということで、急ぎ出発なさいました―- 源氏は紫の上の面影を抱いて、胸塞がる思いで、御舟にお乗りになり、翌日午後四時頃、 かの浦にお着きになりました。 難波の海辺を過ぎて、寄せては返す波をごらんになって、古歌を思い出しては、櫂の雫のように落ちる涙が堪えがたく、また見るものすべて悲しくないものはないのでした。 ◆写真 朝ぼらけ ではまた。