09.2/10 294回
【野分(のわき)の巻】 その(5)
その夜、夕霧は風の音の中にも、何となく、もの思いに沈むのでした。お心に掛けて恋しいと思う雲井の雁のことはしばし忘れて、昼間ちらっと垣間見たあの方の面影が忘れられないので、
「こはいかに覚ゆる心ぞ、あるまじき思いもこそ添へ、いと恐ろしき事」
――これは何とした心だろう、とんでもない料簡も起こしかねまい、実に恐ろしいことだ――
と、何とか自分の気を紛らわそうと、他のことを考えたりもしますが、またすぐに思い出されて、過去にも未来にも類ないお方だとお思いになります。それにつけても、どうして夏の御殿の方(花散里)が父君に人並みに扱われておいでになるのか、あのご器量から言えばまったく較べものになりはしない。ああ、お気の毒なこと、と、思ったりもしますが、父上が花散里の素直な心の方をお見捨てにならないことも、御父ならではのご立派さと、夕霧にはお分かりになります。
「人がらのいとまめやかなれば、似気なさを思ひ寄らねど、さやうならむ人をこそ、同じくは見て明かし暮さめ、限りあらむ命の程も、今少しは必ず延びなむかし、と思ひ続けらる」
――夕霧は真面目なご性格ですので、紫の上に対して似つかわしくない事など、思いもよりませんが、同じことなら、紫の上のように優れた人と共に世を送りたい、そうすれが、限りある命も少しは必ず延びることであろう、と思い続けられるのでした――
翌朝、夕霧は、源氏の御殿こそは人手も多く心配はないけれど、花散里のところはさぞお心細くておいでだろうと、まだ薄明かりのうちから参上します。道中は横なぐりの雨が冷たく吹きつけて、空もようもたいそう荒れていることもあってか、妙にぼおっとした気持ちになって歩いております。
「何事ぞや、またわが心に思ひ加はれるよ」
――何としたことよ、雲井の雁のほかに、また新しく恋しさが加わったことよ――
ではまた。
【野分(のわき)の巻】 その(5)
その夜、夕霧は風の音の中にも、何となく、もの思いに沈むのでした。お心に掛けて恋しいと思う雲井の雁のことはしばし忘れて、昼間ちらっと垣間見たあの方の面影が忘れられないので、
「こはいかに覚ゆる心ぞ、あるまじき思いもこそ添へ、いと恐ろしき事」
――これは何とした心だろう、とんでもない料簡も起こしかねまい、実に恐ろしいことだ――
と、何とか自分の気を紛らわそうと、他のことを考えたりもしますが、またすぐに思い出されて、過去にも未来にも類ないお方だとお思いになります。それにつけても、どうして夏の御殿の方(花散里)が父君に人並みに扱われておいでになるのか、あのご器量から言えばまったく較べものになりはしない。ああ、お気の毒なこと、と、思ったりもしますが、父上が花散里の素直な心の方をお見捨てにならないことも、御父ならではのご立派さと、夕霧にはお分かりになります。
「人がらのいとまめやかなれば、似気なさを思ひ寄らねど、さやうならむ人をこそ、同じくは見て明かし暮さめ、限りあらむ命の程も、今少しは必ず延びなむかし、と思ひ続けらる」
――夕霧は真面目なご性格ですので、紫の上に対して似つかわしくない事など、思いもよりませんが、同じことなら、紫の上のように優れた人と共に世を送りたい、そうすれが、限りある命も少しは必ず延びることであろう、と思い続けられるのでした――
翌朝、夕霧は、源氏の御殿こそは人手も多く心配はないけれど、花散里のところはさぞお心細くておいでだろうと、まだ薄明かりのうちから参上します。道中は横なぐりの雨が冷たく吹きつけて、空もようもたいそう荒れていることもあってか、妙にぼおっとした気持ちになって歩いております。
「何事ぞや、またわが心に思ひ加はれるよ」
――何としたことよ、雲井の雁のほかに、また新しく恋しさが加わったことよ――
ではまた。