29日に行う名古屋校限定ライブのレジュメですが,ほぼ仕上がりました。いつもと毛色の違う!?中々面白いものになったと完全な自画自賛。
単に受動的に聞いて終わりではなく,講義を聞きながら自分自身で色々現状チェックができ,その結果正しい勉強方法が理解できる感じにしました。体感型アトラクション,あ,違う,講義とでもいいましょうか。笑 あ,今年の論文民訴法の設問1と2はやっておいて見てください。
29日に行う名古屋校限定ライブのレジュメですが,ほぼ仕上がりました。いつもと毛色の違う!?中々面白いものになったと完全な自画自賛。
単に受動的に聞いて終わりではなく,講義を聞きながら自分自身で色々現状チェックができ,その結果正しい勉強方法が理解できる感じにしました。体感型アトラクション,あ,違う,講義とでもいいましょうか。笑 あ,今年の論文民訴法の設問1と2はやっておいて見てください。
「選択と集中」,「無闇に手を広げすぎない」,という話をよくします。ただ,この言葉の受け止め方がいつも気になります。この言葉は,手を広げすぎて全部中途半端になることを避ける,という文脈で用いられるのが普通です。問題は「中途半端になる」,の捉え方です。
勉強は,「理解して記憶する」ことで完結します。理解が抜けても,記憶が抜けても「役に立ちません」。結局「中途半端」と言うことになります。ですから,「理解して記憶する」作業を完璧にこなせる範囲で勉強しましょう,という意味で用いられることになるのです。あれもこれも手を広げても,結局やりっぱなしになるのであれば,やる意味がないからです。決して,「読むのが大変だから」,「面倒だから」,「楽したいから」,「なんとかやるべき範囲を狭めたいから」,という後ろ向きな理由ではありません。しかし,無意識に,このような文脈で「自己の勉強スタイルを正当化しよう」とする人も多いような気がします。「そこまではできないから(やりたくないから?)この程度で」,という実態を「手を広げすぎない」という言葉で覆い隠してしまうケースです。しかも,この手のタイプの人は,結局狭めた範囲ですらまともに記憶していないことが多いと思います。
当たり前ですが,「合格する為に必要な知識の絶対量」というものがあります。これは主観的に増減できる話ではありません。勝手に水準を下げると当たり前ですがいつまでたっても受かりません。先日,極めて合格率の悪いロー内部の話を聞く機会がありましたが,合格者の話を聞いても,「そんな勉強は自分にはできない」,として勝手に勉強水準を下げてしまう受験生が多いとのことでした。正直何をしたいのか全然理解できませんし,どうするつもりなんだろうと本当に心配になってしまいました。
どうしても来年受かりたい,という気持ちは分かりますが,だからといって「自分ができそうなことだけやる」というのも変な話です。「受かりたい」のであれば,「間に合わせる」しかありません。「納期」に「本旨弁済」すべくハイスピードでやり切るしかないのです。水準を切り下げたりするのは本末転倒です。恐らく冷静に考えれば分かることだと思うんですが,それだけ追い詰められてしまっているのでしょうか。
ついでに「理解と記憶」ですが,1日の勉強時間が8時間だとして,純粋に「暗記する」ための時間を何時間取ればいいのでしょうか。自分で考えてみてください。
映画が大好きなのですが,劇場で見ていて,また見たくなるほど面白い映画かどうかは,「最初の30分で分かる」,というのが私の経験則です。
結局全米で大ヒットしたりする映画は,リピーターが多いということです。この映画1回でいいやと思うかどうかは,やはり「テンポ」の問題である事が多いのです。興収2億ドルでとまって3億ドルまで届かなかったのは何故だろう,と思って実際にみてると,「冒頭30分テンポわりぃ」,と感じる事が殆どです(興収2億ドルということは,大ヒットはしていると言うことなんですが,それが3億ドル越えするかどうかは,やはりそれなりの特殊要因があるのです)。
答案も同じです。1ページ目が終わっても,ぐずぐず抽象論に終始していたり,主要論点に全然切り込めていない答案と,既に切り込めている答案では,やはりキレが違います。コンパクトに書く,端的に切り込めるというのは実力がないとできません。つまり1ページ目のテンポが良い答案というのは「実力者である推定」が強く働く答案だ,ということを意味します。
映画は最初の30分,答案は最初の1ページ目が勝負です。