中年オヤジ九人の気まま旅は下呂の湯・平湯の湯・白骨の湯を楽しみながら、
上高地をメインにしていたが帰路についた時まだ時間に余裕があったため、
野麦峠に立ち寄ることにしました。
中年以上の人ならほぼ知っている映画「ああ野麦峠」です。
大竹しのぶさんが「政井みね」役でしたね。
明治から大正にかけて外貨を稼ぐ手だては生糸でした。
養蚕が日本を支えていた時代です。
その陰では10代、20代のうら若き製糸工女たちの悲惨な生活がありました。
諏訪地方には豊富な水のおかげもあり製糸工場が集中していました。
周辺農村部から集められた大半の少女達は、
山深い飛騨の山中の村々から連れてこられた貧しい農家の子供達であった。
多くの少女達が半ば身売り同然の形で年季奉公に出されたのでした。
工女たちは朝の5時から夜の10時まで休みもほとんどなく過酷な労働に従事しました。
工場では蒸し暑さとさなぎの異臭が漂う中で少女達が一生懸命、
額に汗をしながら繭から絹糸を紡いでいた。
苛酷な労働のために、結核などの病気にかかったり、
自ら命を絶つ者も後を絶たなかったといいます。
(上記ネットから一部転載しました)
長野県側から曲がりくねったすれ違いもままならぬ道を、
エンジンをふかして上りきると小さく開けた広場にお助け小屋があります。
駐車場の横に背負子に座る「みね」と担ぐ兄の像がありました。

本当の峠はここでなく更に10分ほど登った高所にあって展望台になっています。
折角来たならと息を切らして昔は無かっただろう石畳を登りました。
走らなくなって15年です。
気力はあっても上げる足の疲労感が半端でないです。
こんな険しい山道が工女のみならず、
かっては大名の参勤交代や富山の魚まで運んだ道というから驚きです。
病気になって兄におばわれて故郷の飛騨へ返される「みね」が、
やっとのことで野麦峠に差しかかった時、
「アー飛騨が見える、飛騨が見える」と呟いて息絶えたとあります。
「政井みね」の碑があったが説明文はくすんでいてよく読めなかった。

たった100年前のことです。
時代は移ったが無数の「みね」たちの礎で現在があることを忘れてならない。
峠から飛騨と諏訪を眺め「みねの碑」にしばし合掌しました。
碑の向こうには乗鞍岳がそびえていました。
< 野麦にて「みね」思いし五月風 >