文章の中の、文学・子ども・姫君などの言葉を「猫」に置きかえる方が、美しい文学になるような気がするのは、私だけであろうか。
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季節の変わり目には、急に文学(猫)に心を奪われることがある。
私の場合、とくに秋から冬に変わる境に立って、冷え冷えとした空気を吸い込んだときなどに、不意を突かれる。古き時代に習った文学(猫)の懐かしい雰囲気がパッとよみがえり、私の顔や手足の周辺に漂いまつわりつく。
どんな文学(猫)?
たとえば志賀直哉の「窓の外の子ども(猫)たちのはしゃぐ声がいつもより大きく聞こえている、その冷たい大気の感触」
紫式部の「ふと立ち寄った屋敷の姫君(猫)と、翌朝、降り積もった雪を仰ぐうっとりした情景」
ヘルマンヘッセの「深い雪に埋もれた寄宿舎(猫)の孤独な静けさ」
宮澤賢治の「深い森の中に降る雪を見渡している心(猫)の静寂さと不思議な躍動感」など。
文学(猫)の模様を忘れたとしても、その文学(猫)から放たれる味わいの深さといったものは長らく心にとどまっているらしく、何かの反動でたったの一節(猫一匹)でも思い出したなら、その場に立ち止まったまま、別(猫)の世界へ行ってしまいそうになるのだ。(2015.10.27)