最近、ブログを書くうちに、以前のものと同じテーマにこだわって、似たような内容を書いていることに気がつく。気づかないで書いている記事が他にも多数あるのだろう。年取るにつれて物事への執着が強くなるという性から、なかなか逃れられないものだとつくづく思う。
今回のテーマ、霊長類の中でも、ヒト種だけがきわめて高度な進化を遂げているという居丈高な推論への反論。こういうことに噛みつくのがなにより好きなので、大目に見てほしい。
ヒトが高度だとか特殊だとか、他者との比較の基準自体を決めているのはヒト。それは身勝手なのではないか。私個人を振り返ると、進歩の跡なんてさっぱり見当たらない。なので、頭の切れる、はなと、進化や退化について間違っても議論できないのである。
霊長類至上主義を補足するような、意識に関する推論もある。生命体個々に意識というものをが備わっているのは霊長類だけで、その他の生物は自然とそっくりな、あるがままの意識を共有しているにすぎないというもの。以前、これについても反論したことがある。
もしも、意識の共有があるとしたら、たとえば、とのと、はなが属するネコ族は、自分と他ネコを区別する意識は存在しないということになる。いや、断じてそんなことはない。彼らネコ族の意識はまったく我がままきわまりなく、個体ごとに独自の発達を遂げている。
虫だって縄張りなどを巡って戦うが、それは相手と自分との区別がついているからだ。区別する意識がないまま争うのは、まことに不自然。これに対し、虫の場合は、意識と言ってもそれは生理的な反応にすぎず、縄張り争いは単に生存のための本能的行動であり、意識の違いゆえの行動には該当しないという意見があるかもしれない。でも、繰り返しになるが、互いを別の個体と認識しているのは間違いないとしか言いようがないのだ。
では、今流行のミドリムシはどうなのだ、というヒトがいるだろう。私としては、基本的に生命体一個と意識一個はセットになっていると主張する。
理屈かもしれないが、自然そのものなら、自然の中から個体として発生するはずがないのではないか。個体として発生したいという欲求が働くから、そのような個体が生み出される。自然のままで良かったらわざわざ個体へと分離する必要はないと考える方が理にかなっていると思うが。
でも、こんなことを考えても一銭にもならない。一銭にもならないからブログなんてやらないという霊長類がいるが、そういうヒトビトがとうてい発達しているとは思えない。と、こんなふうに、誹謗中傷する私のような霊長類が高度に進化しているわけがない。(2015.10.21)