その日、帰宅すると、家人は「はな」だけだった。三連休を迎える前日の金曜夜、これから休みの間ずっと自由時間、こんなことはかつてないことだ。新聞のテレビ欄を見ると、夜九時から「思い出のマーニー」テレビ初放映!と載っていた。また女の子に乗っ取られたアニメか、とまったく興味が湧かなかった。
はなは、父さんと二人っきりが寂しいのか、新聞の裏側からもぐり込んできて、マァとかニャとか鳴きながら、私の膝や腕に身体をぶつけてくる。
ジブリ作品はいろいろ観ている。「ナウシカ」と「火垂るの墓」なんて幾度もだ。「ベンハー」や「猿の惑星P1」だって二回だけ、こんな念入りに観たのはちょっと思い当たらない。しかし、ここしばらく、ジブリ作品に対しては、ぜんぜん変わり映えしないと冷めてしまっていた。
ところで、目の前のテーブルの上に、一冊の文庫本が伏せられたままになっていた。ゆったり時間が流れているというのに、私は、落ち着きのない視線を書店名の印刷がある表紙の方へちらちら走らせている。読みかけのその本へ手を伸ばそうとするたびに、読むのがもったいないと思ってしまう。
こんなふうに読み渋るのは初めてではない。以前ブログに書いたブロッホの「誘惑者」(古井由吉訳)、「悪霊」「ダルタニァン物語」、カミュの「最初の人間」(この本は現在進行形)、「人形つかい」「郷愁」、内田百(ひゃっけん)の本など。
このほか、中途半端にした本は、力尽きたままのプルーストをはじめ、別の本に興味が移って読み忘れた本などを加えると相当な数にのぼる。平成二十年に母親が亡くなった後、実家に預けていた本の大半を始末した中に、そういう不遇な本が埋もれていたと思うと、残念で仕方がない。
本論に戻る。気にかかる本のタイトルは何かというと、「トムは真夜中の庭で」(ピアス、岩波少年文庫版)というイギリスの児童文学の名作。ピアスは、一九五〇年代に発表したこの本の中で、トムとは雄の黒猫の名前と書いている。トムはトーマスの愛称。機関車トーマスが有名だが、機関車に猫のイメージは重ならない。一九世紀のトムソーヤの方が日本ではたいそう人気がある。「トムとジェリー」シリーズも大戦以前から四コマ漫画で始まっていたという。この黒猫トムから何らかの示唆が、あるいはそれ以前に起源があったかもしれないが、この稿ではこれ以上追求しない。
私はこの本を開いてみて、初めて読む本とは思えなかった。というのは、読むうちに、主人公のトムとはずっと昔からの知り合いで、よく遊んだ仲間だといった、記憶と似たような感慨がぐんぐん高まってくるのだ。ひょっとすると、子どものころ読んだ記憶が少しずつよみがえっているのかもしれない。とにかく、かわいい子どもや動物たちを抱きしめたくなる、そういった物語なのだ。
このトムの本の後半に入ったころ、また不思議な気持ちがした。物語がどんなふうに結末を迎えるか、言い当てられる確信が心の中に湧いてきた。「はな」とそっくりなかわいらしい、ハティがいったい誰なのか、私にははっきりわかった。これは「との」と「はな」の物語だ。私の目の前で、とのがトムとなって飛び跳ね、はながハティの姿をしていた。
違う時間を生きていたトムとハティ、との、はな、そして私。彼らと私はそれぞれの時間を持ちながら、それと知らないで、どこかで何度も会っているのだ。私はそう思うと、この本の結末を予想してこみ上げる感動を必死にこらえた。
その夜、シャワーを浴び、パジャマに着替えてビールの缶を開けたとき、すでに九時半を過ぎていた。テレビのスイッチを押すと、画面に現れたのはアニメの映像。男の子のような主人公が湿地帯に小舟で漕ぎ出す場面を見ながら、チャンネルを変えようかどうしようかしばらく迷ったが、そのうちせっかくだからと見続けることになった。
その結果、止める者がなく、いつもより飲み過ぎた私は、しこたま酔っ払った。酔ったからではないが、杏奈と同じような年格好のマーニーが実は杏奈の祖母だったことがわかる場面で、不覚にも落涙した。映画を見て涙腺がやられるのは前からあったので、どうってことはない。
マーニーを見た後で、私は何かに憑かれたように、一気にトムの本を読んだ。そして、私の予感が当たったことがわかったとき、この夜、再びこみ上げる涙をおさえられなくなった。本を読んで泣いたことなんて、はっきり数えられるほどしかない。最初は高校生のときの「嵐が丘」、次は自分が書いた「黒猫とのの冒険」、今回、三冊目に当たってしまった。
とのは、ネコ国の広大な庭で大勢の知り合いと出会って楽しんでいるだろう。そのうち、はなも私も行くことになるその庭は、きっとよく知っている場所なのだろう。(2015.10.14)