今朝はひどく不快な暑さだった。ネットで調べると湿度九十パーセントの表示。あきれて久しぶりに冷房かけて涼みながら、何とはなしにネットをいじっていたら、「學士會報」という雑誌のH27.5月号に、日本古代史の上田正昭の記事を見つけた。タイトルは「東アジアと古代日本」。5C後半、災害で荒れ果てた飛鳥の地が、朝鮮半島から移住してきた者らによって復興され、それが後の繁栄の基盤になったという内容だった。
続けて、学士会アーカイブスのページを開いた。すると、目に飛び込んできたのは、M22年に起きた熊本地震直後に現地入りしたルポルタージュ。この記事にも、住人たちは戸内に眠るのを危険とし、路傍に小屋を懸けて露宿する列を見た、とあった。
知った名前が続くので止められなくなった。明治の後半から昭和の十年代までの間、吉野作造、新渡戸稲造、澁澤栄一をはじめ、当代の著名人の名が連なる。大戦後になると、いにしえの有名人が登場する。日本の仏文学の草分け的存在、辰野隆がS30會報に、自身の学生時代、仏人の教師からマンツーマンで睡魔と闘いながら授業を受けたことなどを書いている。
S41には英文学の出原佃が「夏目先生と私」を寄稿。大学生の出原が、担当講師の漱石から質問されるたび「知らんです」と答えるので、業を煮やした漱石から「シランデス」という博士号?を贈られたこと。漱石が西園寺総理主催の文士たちのパーティーに招待されたとき、「時鳥厠半ばに出でかねたり」と断りのハガキを出したこと。そして有名な懐手の逸話、授業中も懐手のままの学生に腹を立てた漱石が、学生の手がないことを知って、「私がない智恵を絞っているのだから君もない手を出せ」と苦し紛れの口上を述べたこと。これらのことを記した後、「それから五十年、半世紀、今ごろお逢いしたいと言ったとて出来ぬ相談、こんなことを書いて見て先生を偲びたい」と結んでいる。残念ながら猫は出てこない。
辰野や出原の記事を読むと、半世紀もの昔の思い出に耽るのが楽しくてしかたがないといった気持ちがひしひしと伝わってくる。年とればこれ以上の幸せはない。
このあと、丸山真男、竹鶴(子息)、東山魁夷、平山郁夫たちが続き、平成に入って、岩波書店会長の岩波雄二郎の「ドイツよ、お前もか?」に目をとめた。私はこのとき、雄二郎を創業者の茂雄だと勘違いしたまま、十数年前に訪れたときの勤勉で誠実だったドイツに比べ、今はずいぶん国民性が乱雑になったという批評を読んだ。ご存知のとおり、岩波は漱石の「こころ」を創業第一作として刊行した。ちなみに我が出版社の初刊行本は「黒猫とのの冒険」である。著者名は猫石とでもしておこう。
ふと気がつくと、アーカイブスを読み出して二時間近くも座りっぱなし。おまけに冷房に当たって体が冷え切ってしまった私はあわてて席を立った。そして、半世紀前の猫がいないかと周辺を徘徊し始めるのだった。(2016.8.1)