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エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

じゃれ合いは非暴力のはじめ

2014-07-16 14:04:46 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
「非暴力的な心構え」の先駆け
  ゲーム(2グループの分かれて遊ぶ遊び)には勝ち負けがつきものですが、その遊びをしながら、子どもは知らず知らずのうちに「権力モデル」、すなわち、どうすれば、...
 

 ライオンの赤ちゃんや、猫の赤ちゃんがじゃれあっているのを、テレビか何かで見たことがありませんでしょうか?前足でひっかく真似をしたり、飛び掛かったり、かむ真似をしたり…。エリクソンはそれは、本当の敵対行動を回避するための遊びであるといいます。その遊び中の陽気で楽しいが、敵対行動を防いでいるのです。

 人の子どもも、仮面ライダーごつこや〇〇レンジャーごっこをしますでしょ? あれもじゃれ合う感じで、陽気で楽しんでやれば、非暴力の練習になる。しかし、向きになって仮面ライダーごっこをすれば、本当の喧嘩になっちゃう。陽気で楽しい、ということがいかに重要かが分かります。なぜって、陽気で楽しければ、向きになることもない、向きになるのは、陽気で楽しいがない時だけ。

 あなたも、仮面ライダーごっこをしている子どもを見たら、「そんな喧嘩みたいなことは止めなさい」と言ってはダメですよ。なぜって、それは「非暴力の練習だから」。この練習をたくさんしておくと、物事を、ウソとゴマカシに依存せず、暴力に頼らずとも、話し合いで解決していくこと、その基ができますからね。

 

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貪りと慈しみ

2014-07-16 10:06:40 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 今日は、貪りと慈しみがテーマ。まるで宗教ですね。

 p50の第三パラグラフ。

 

 

 

 

 

 性欲が高じれば一体になりたい。それは、決して体が欲求である場有ではありません。痛みを和らげるものでもあるんですね。しかし、性欲は、一人ぼっちの不安があると高じますし、また、征服したいだとか、征服されたいだとかを願うことによっても、虚栄心によっても、傷つけたいと願っても、殺したいと願ったときでさえも、高じます。性欲が恋によって刺激されているうちは、そうなのです。性欲は、大事なのはたった一人だとする強い感情と混同されやすく、あるいは、その強い感情によって高じます。性欲はほとんどの人の心の中では、人を大事に思う気持ちと結びついていますから、身体を求めることがお互いに大事にすることだとする誤解を抱きやすいのです。相手を大事に思うことが、セックスをして一体になりたいと願う思いを強めることがあります。この場合、身体の関係には、貪りもないし、征服したり、征服されたりしたいという願いもないし、あるのは、慈しみが滲んでいるということです。一体になりたいという願いが、相手を大事にする思いによって高じなければ、セックスの相手を大事に思う気持ちは、けっして兄弟のように親身になって人を大事にすることではないならば、一体になりたいと願う気持ちは、乱痴気騒ぎの、はかない意味でに一体なることにはなりません。性的に魅力のあることは、一時、一体になれそうな幻想を作り出しますね。しかし、≪真の関係≫の中で相手を大事にすることがなければ、この「一体」の幻想は、以前よりもはるかに深く訳の分からない人を残します。お互いに相手を辱めることになることになることもあれば、お互いに相手を憎み合うことになることもあります。なぜって、その幻想が幻滅に変わると、以前味わったこともないほどの疎外感を感じるからですよ。慈しみは、フロイトが信じていたように、性的刺激が高じたものでは決してないのです。慈しみは、親身になって人を大事にすることから直に出てくるものなんですね。慈しみは、見える形になる場合もあれば、眼には見えない形であることもありますよね。

 

 

 

 

 セックスの相手を大事にすることは、貪りのはじめ。

 ≪真の関係≫の相手を大事にすることは、慈しみのはじめ。

 

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アイデンティティの根っことしての、≪私≫という感じ

2014-07-16 06:09:25 | アイデンティティの根源

 

 ≪私≫という感じは、分かったようで、実に分かりにくい。≪私≫という感じは、それを話し言葉にすることで他者と共有し、さらにそれを他者と共に出来事にすることで確かにするものなのですね。 人生において、そうすることを繰り返すことを通して、≪私≫という感じは、確かな手ごたえのあるものとなり、「自分を確かにする道」という意味のアイデンティティができてくるのですね。

 p323の10行目の途中から。

 

 

 

 

 

ウィリアム・ジェームズは(『心理学原理』に中で)、特権的視点から、この課題を研究しました。すなわち、専門的な思想家の立場からです。

「私は、どんなことを考える時にはいつでも、、多かれ少なかれ、自分自身に、自分が個人として生きていることに、気付きがあるものです。それと同時に、それを気付いているのも、まさに、I アイの私なんですね。ですから、me ミーとしての私全体を感じることは、いわば二枚重ねの私は、知られる部分と、知る部分があり、客体の部分もあれば、主体の部分もある。それは、私の中に、峻別しなくてはならない二つのアスペクトがあるはずです。それを私は、短く、the Me ミーと呼び、もう1つをthe I アイと呼びます。

アイ、すなわち、「純粋自我」は、ミーよりも研究することが、はるかに難しいテーマです。アイは、どんな時でも意識「である」けれども、ミーの方は意識が捉える「対象」でしかありません。言葉を変えて申し上げれば、アイとは「思想家」なんですね。問題は、すぐに「思想家」とは何か?ということになります。」

 

 

 

 ≪私≫という感じは、ジェームズの言うアイの方ですね。ですから、通常、エリクソンは、ジェームズに倣って、アイを斜字体にして、a sense of " I "≪私≫という感じと書いています。

 

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