エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

「仲間内」の狂気に、ハッキリ「ノー」と言ってやりましょう!

2014-07-20 13:52:16 | エリクソンの発達臨床心理

 

 
ウソ、そして、アイデンティティ形成と「一つの人類」
  人が自由になれるのか、束縛されてしまうのか、の別れ道は、 「人類を2つに分けるウソ」の取扱方次第、ということでしたね。 今日は、ウソって何? が登...
 

 今日の『東京新聞』(July 20, 2014)の25面の「本音のコラム」に、法政大学教授の山口二郎さんが「狂気の国」という文書を書いています。集団的自衛権にまつわる政治屋たちの言動は、政治屋の「腐敗」と「劣化」を物語るとした後、川内原発の再稼働の判断に陥る「原子力規制委員会」のマヤカシの名を冠する、実質「原子力ゴマカシ推進委員会」の田中俊一委員長の「原発の安全性を確認したわけではない」という無責任、安倍晋三首相が、機雷除去は「戦闘行為」だと世界が認めているのに、戦闘行為には参加しないといいつつ「機雷除去はできる」という超バカ、それから、小保方晴子さんの博士論文について、早稲田がろくに審査もせずに学位を出した愚かさを語ります。なぜ今の日本は、外では通用しない「仲間内」「内輪」のロンリである “狂気” を強行するのでしょうか?

 それは、昨日、NHKが丸山眞男教授の番組で紹介していたように、「いま」に始まったことでは、まったくありません。丸山眞男教授の言葉を借りれば、それは日本の「古層」に通じるものであり、日本の歴史の「通奏低音」だというのです。狂気が通奏低音? そうです。それが歴史の表舞台に出たものが、ノモンハン事件であり、その延長である、太平洋戦争における日本と日本軍の狂気です。そして、「今でしょう」。

 私どもはこの狂気から正気を守るためには、何をすればいいのか? それは「反抗」です。狂気に対して、ハッキリと「ノー」と異議を唱えることです。

 これについては、東北大学名誉教授、南原繁ゼミナールで丸山眞男教授の後輩に当たる宮田光雄先生の新刊『われ反抗す、ゆえにわれら在り――カミュ『ペスト』を読む (岩波ブックレット) 』が参考になりますよ。

 

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意思の行為にしたいなぁ

2014-07-20 12:15:07 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 セックスの相手を大事にする気持ちさえ、その相手を真に大事にしようと思えば、人類全体を大事にするオリエンテーションに進んでいく。素敵ですね。

 今日は、p53の第2パラグラフ。

 

 

 

 

 それで、双方の見方、即ち、1つはセッスクの相手を大事にする気持ちが、特別な2人の間にある特別な、全く個人的な魅力であるとする見方と、セックスの相手を大事にする気持ちが、意思の行為であるとする見方とが、双方とも真実なんですね。あるいは、もっと上手に申し上げれば、真実は、これかあれかの二者択一、ではありません。したがって、簡単にバラバラになってしまう関係という考え方は、私どもがその考えとうまく折り合えなければ、間違いであるのは、どんな状況でなっても、その関係がバラバラになることは決してない、という考えと同じように間違いなんですね。

 

 

 

 

 セッスクの相手を大事にする、という言い方が、「ちょっと露骨すぎる」というご意見を言って下すった方がおられます、ありがとうございます。この言葉は、erotic loveの訳語です。普通と言ったらあれですが、「性的な愛情」ということのなりやすいでしょう。でも「性的愛情」って、日常会話で使いますか? 私は言ったこともありませんし、聞いたことさえない。でも翻訳となったら、そんな翻訳をする場合だって、ある。しかし、私は「日常的に使う言葉を使う」を原則としていますから、この訳語を取りません。

 それに比べたら、「セックスの相手を大事にする」は、具体的で分かりやすい。日常語としても使う場合もある、と考えられますね。それでこっちを使うことにしたのです。

 さて、今日のところで、フロムは、関係がすぐにバラバラになるような関係もなければ、けっしてバラバラにならない関係もない、というのです。あるのは、その両極端の間にあるといいうのが真実だ、というのは、頷けるところです。セックスの相手を大事にする気持ちも意思の行為にしていくところに、私どもの≪真の関係≫が問われている、というのが合理的で、誠実なあり方ではないでしょうか。

 

 

 

 

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息詰まりの時代

2014-07-20 06:07:10 | アイデンティティの根源

 

 イエスのガリラヤ伝道は、2000年前の西アジアの話とは限らない。それを今の日本に置き換えることもできるのですね。それが、ガリラヤの道とエリクソンがここで言っていることなんですね。

 p324の下から8行目から。

 

 

 

 

 

 この美しく豊かな田園は、その地方の幾筋もの道が交わるところですから、ガリラヤの人々が最初にイエスの話に耳を傾けたことを、褒めたり、貶したりする、様々な極端を含んだ田舎となった、唯一の地理的基盤です。褒めたり貶したりする極端な状況が、パレスチナの至る所にあったのは、反乱軍がバラバラにされたときでした。しかし、たとえば、ギリシア人の都市国家では、平安な定住民がいましたし、田舎には、ユダヤ教の地主が暮らしていました。少数の者は金持ちでしたが、大部分は「小さな土地持ち」でしかありません。その中には、大工仕事や焼き物のような、家内制手工業に忙しいものもあれば、雇人を雇ったり、自分の奴隷を雇ったりする者もいました。これらすべての人々の中に、集会によく行く人の一群があり、その人たちは、言葉を祈ったり、言葉を学んだりしていました。その当時、寄る辺なき寄留者がたくさんいて、仕事を探している場合も多く、雇われざる働き手と労働者でしたし、それから、若い息子たちもいました。しかも、ガリラヤは、ローマの中心から離れていたというだけで、熱心党の「温床」でした。熱心党は、信心深いテロリストたちの運動で、自分たちの時代が来るのを待っていたのでした。しかし、こういう運動は、いつでも、たくさんの若者たちの命が犠牲になって、ハイお終い、というものでした。当時、再び、民族の(それは、宗教の上でも、地域的に言っても、という意味です)ことで、敗北感を感じている人が溢れていました。その人たちは、あらゆる救世主の運動に対して、心を傾けていて、当然、「文字のない大衆」であるとみなされていました。この人たちこそ、イエスが伝道した自然の聴衆でした。

 

 

 

 

 当時のガリラヤは、豊かでしたが、しかし、政治的にも、宗教的にも、息詰まりの時代でした。そこには、新たなヴィジョンの再生が何よりも求められていた時だった、と言えるでしょう。

 イエスが登場したのは、まさに行き詰まり(息詰まり)の時代でした。

 

 

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