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エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

最も人間らしく 私どもの選択

2014-07-17 13:06:01 | エリクソンの発達臨床心理

 

 
最も人間らしいこととは? 負けさえ気持ちよく楽しめる技術 : 非暴力
  動物たちが、争いを回避するための行動を本能にプログラミングされている、ということは、生物の英知なのだろうと思います。しかし、それがまさか、マハトマ・ガンジ...
 


 最も人間らしくするとはどういうことなのでしょうか? それに答えたのが昨年の昨日のブログです。最も人間らしいのは、敵であっても、対等な人間として認めることだ、というのがエリクソンの最も人間らしい主張でもあります。

 敵を対等な人間と認めれば、敵を負かすことはあっても、徹底的に打ち負かすことなどありません。ましてや、滅ぼし尽くすことなど思いのほか。

 政治的に最も人間らしいのは、非暴力とその方法。ですから、その方向に進んでいれば、集団的自衛権ばかりか、個別的自衛権さえいらない。

 私どもは、諸外国とどういう関係になりたいと願うのか? それを自らに問うことが是非とも必要です。その延長に、集団的自衛権など不必要なこととする選択も可能なんです。

 私どもは、原発をどうするか? それを自らに問うことが是非とも必要です。その延長に、原発はもはやいらない、という選択も可能なんですね。

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セックスの相手を大事にすることと、村八分

2014-07-17 10:25:22 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 大事にするといっても、貪りと慈しみでは、天と地の差がありますね。天国と地獄かもわかりませんね。

 p51の第2パラグラフ。

 

 

 

 

 

 セックスの相手を大事にするとき、兄弟のように親身になって人を大事にすることも、母親のように、温もりのある感じで人を大事にすることもない、村八分があります。セックスの相手を大事にする気持ちが村八分を生み出す性質については、もっと議論することが必要です。セックスの相手を大事にする気持ちにある、村八分の気持ちは、強迫的な愛着だと誤解する場合が多いです。「恋に」落ちた2人が、他の人を大事に思えなくなることがあることにお気づきでしょう。その人たちの恋は、実際に、自己中の2人版です。その2人は、お互いに相手を自分自身の分身のように感じて、一人の人が2人に拡大することで、相手にされないという課題を克服しているのです。その2人は、一人を克服する経験をするけれども、その他の人類からはかけ離れていますから、お互いからも離れ離れのままですし、自分自身であることもできません。その2人が、自分たちは一体になっていると思っているのは、幻想です。セックスの相手を大事にすることは村八分の気持ちですが、それでも、他者の中に存在する全人類、居間を生きるすべてを大事に思うのです。セックスの相手を大事にする気持ちが他者に対して大事に思う気持ちを村八分にするのは、セックスしている時の一体感があり、人生すべてをかけている場合だけであって、親身になって、心の底から、人を大事にすると意味においてではありません。

 

 

 

 

 鮮やかな対比ですね。セックスの相手を大事にする、貪りは、それでも、その他の他者の対する大事にする気持ちもあるので、セッスクの相手を大事にするだけでは、物足りないんですね。オープンな関係に開いていく必要が、どうしてもあるようですね。

 その点、兄弟のように親身になって人を大事にすることや、母親のようにぬくもりのある感じで人を大事にすることは、オーブンな関係であり、直接の相手だけではなくて、全人類を大事にすることと繋がっているわけですね。

 

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#私が生きている実感 #私が1つの私たちになる #発達トラウマ障害DTD治療の要

2014-07-17 06:01:49 | アイデンティティの根源

 

 私、には、知る対象である、「知られる私 ミー」と 知る主体である、「知る私 アイ」かあると言ったのが,ウィリアム・ジェームズです。私ははじめから2重性があり、それをまとめることが何よりも大事なんですね。この二つが分裂するとき、あらゆる精神病理と社会病理が始まる、と言えるほどです。

 The Galilean saying and the sense of "I" 「ガリラヤのイエス・キリスト物語と≫が生きている実感からp323の第4パラグラフ。

 

 

 

 

 

 これ(ウィリアム・ジェームズが,「意識の中心である≪私≫を意識の対象にするのは難しい」と言っていること)を読むとき、私はどなたかが次のようにつぶやくのが聞こえてきます。「われ思う、ゆえに、われあり」(訳注:近代哲学の祖,デカルトの言葉)と。しかし、私どもが今ここで関心があるのは、すべてのに人間にある「≪私≫が生きている実感です(すべての人間には、その中にはあの哲学者たちも含まれます)。「≪私≫が生きている実感」が,「≪私たち≫が生きている実感」の中で,他の人たちと絆が出来るのは,1つの言葉を共有することによってですし、その共有された1つの言葉は、次に、世の中に対する世間に広まっている見方が,ある地域の人ひとりびとりの一般的な見通しに影響するだけではなく,特に,新鮮な啓示を告げる声を受け止める,ひとりびとりの心構えにも影響する仕方に,シックリと来なくてはなりません。結局,≪私≫が生きている実感は,みんなが自分の経験を伝え合うこの世の中で,意識の中心であり,その意識の中心であることが,あまりにもヌミノースなので,≪私≫が生きている実感は,イキイキ,ピチピチ生きている実感になり,さらには,いまここを生きる,なくてはならない条件だという実感にもなります。同時に,2人か,3人が,一致した世の中に対する見方を,言葉と共に,分かち合う時,いっとき,ひとりびとりの≪私≫が生きている実感が,一つの≪私たち≫が生きている実感に没入させることができます。そこで,私は後ほどお示ししようとするのが,特定の時空の特色を区別できる,ということです。その時空の特色次第で,≪私≫が生きている実感がかなり確かにされもし,あるいは,≪私≫が生きている実感が確かにされなければ,あの独特の強い不安に陥ることにもなります。

 

 

 

 

 

 ここが、日常生活の心理学である、臨床心理学、いいえ、実践心理学の要諦です。

 発達トラウマ障害DTDの子どものサイコセラピーにバッチリ使えるところです。

 

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