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エリクソンの発達の舞台(段階)に、最初に登場するのは、赤ちゃんとそのお母さん。赤ちゃんが、自分を、世界を信頼することができるか否かの危機は、そのお母さんが昼夜を分かたず、赤ちゃんに献身するのかどうかにかかっています。人間の信頼は、一人の人の、昼夜を問わない献身があるかどうかで決まるのです。そして、信頼、根源的信頼感という、良心、意識、そして、≪私≫の中核が生まれるのです。
それがなければ、人は一生操り人形。いつも、自分が死んでいる、自分も世界も信頼できない、という危機を生きることになります。
今日から翻訳が始まる「ガリラヤの言い伝えと≪私≫という感じ」は、その信頼で始まる一人の人の≪私≫の核が、世界史の中で、どのように位置づけられるのか、をきわめてハッキリ、クッキリしてくれる、気持ちのいい文章です。どうぞお楽しみください。
p321の冒頭から。
エール・レヴュー(1981 春)
エリック・H・エリクソン
「ガリラヤの言い伝えと≪私≫という感じ」
トーマス・ジェファーソンは、新たに大統領に就任したとき、ホワイトハウスで、一人豊かな夜を過ごすことがよくありました。そのとき、ジェファーソンは、聖書の言葉をいくつもの言語で学んでいたのです。ジェファーソンは、あらゆる行の、あらゆる一節ごとに記しを付けて、どの一節が、イエスが真実な声で自分に語り掛けてくるのかどうか、を知りたいと思っていました。というのも、ジェファーソンは、イエスの本物の教えにしか興味がなかったからです。ジェファーソンは、キッパリ言うのです。「私はキリスト者です。しかも、キリスト者とは、他のどんなことよりも、イエスの教えに真実でありたい、という意味なのです。そして、あらゆる「人間的な」美徳は、イエスご自身にこそあるとするのです。イエスは他には何も求めたりなどしない、と信じています」と。ジェファーソンは、しまいには、聖書を1節ずつ切り取って、それを張り合わせて、それが、「イエスが良しとされること」でした。それは、「ナザレのイエスの哲学」という表題のもとに集めました。それには、「この研究をアメリカ・インディアンに捧げる」との副題も付けていました。私はここで、ジェファーソンがどういう方針で聖句を集めたのかを追求しようというのではありません。 2つのことを除外すること、すなわち、復活も、奇跡や神の癒しなどは全くない、ということに触れます。実際問題、そこに残っていたのは、「山上の説教」でした。
ジェファーソンが聖書研究をしていたこと、それは政治家が、自分独自の判断ではなくて、「イエスがよしとすること」に忠実であろうとするものでした。その際に重要なのが、イエスご本人の≪声≫です。どこぞのデマゴキブリが自分勝手な声を張り上げているのとの対比は、鮮やかすぎるほどです。かたや人類の味方、かたや人類の敵です。
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