エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

私どもが「共に見る」ことを願うヴィジョン

2014-07-12 16:42:56 | エリクソンの発達臨床心理

 

 
全てのやり取りは、人生全てを見通すヴィジョンと生きがいを宿す
  第一章では、子どもの遊びから政治まで、「共に見る」ということで共通することが実に多いことが分かりましたね。また、子どもの遊びから政治まで、実に演劇とも...
 

 私どもの未来は、私どもがどのようなヴィジョンを選択するのか、にかかっているのです。

 私どものヴィジョンは、私どもがどのように子どもとやり取りするのか、にかかっているのですね。

 私どもの子どもとのやり取りは、子どもにどのような未来を願うのか、にかかっているのです。

 そして、

 私どもがどのような未来を願うのか、それは、あなた自身がご自分に問いかけてみることです!

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

得るよりも与える幸い

2014-07-12 10:03:45 | エリクソンの発達臨床心理

              今日のご来光

 ≪真の関係≫を母親が生きるのは、その母親は得るよりも与える幸いを実感すればこそなんですね。その母親は、神様のような存在ですね。

 p48の第三パラグラフ。

 

 

 

 

 

 母親が成長する子を思う気持ちは、自分のためにはな~んにも求めるものはありませんが、おそらく、言うは易く行うは最も難き≪真の関係≫でしょう。と同時に、最も「ウソとゴマカシ」が入り込みやすいのは、母親ならば小さいわが子を大事に思うことは容易であるが故なんですね。 しかしながら、実行することが難しいために、本当に≪真の関係≫ができる母親になれるのは、実際に人を大事にする時だけです。つなわち、自分の夫を大事にするし、自分の子どもではない子どもたちも大事にするし、全人類を大事にする場合だけなんですね。この意味で人を大事にすることができなければ、その女性は子どもが小さい間は、情愛がありそうな母親でいられますが、子どもが次第に自分から離れていくことに対して、快く耐えて、踏み止まるという試練を前にすれば、人を大事にする母親では、もはやいられません。ましてや、巣立った後まで、その子どもを大事にし続けるという試練をまえにすれば、なおさら、人を大事にする母親でいることなど、夢のまた夢。

 

 

 

 

 この母親の試練は、実はその母親が赤ちゃんの頃の試練、危機とおんなじです。すなわち、根源的信頼感に傾くのか、逆に、根源的不信に陥ってしまうのか、という危機ですね。この時、根源的信頼感の方に傾くことができれば、その赤ちゃんは、お母さんと離れていても、絆があることを実感することができます。赤ちゃんの時以来、根源的不信の危機に陥っている母親は、子どもが自分から離れて自立していくときに、離れていく子どもとの絆を実感できませんから、子どもを支配し、自分の手元に置いておきたいと強迫的に思うのですね。クワバラクワバラ…。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イエスキリストの本物の≪声≫に従うこと

2014-07-12 06:30:25 | アイデンティティの根源

 

 エリクソンの発達の舞台(段階)に、最初に登場するのは、赤ちゃんとそのお母さん。赤ちゃんが、自分を、世界を信頼することができるか否かの危機は、そのお母さんが昼夜を分かたず、赤ちゃんに献身するのかどうかにかかっています。人間の信頼は、一人の人の、昼夜を問わない献身があるかどうかで決まるのです。そして、信頼、根源的信頼感という、良心、意識、そして、≪私≫の中核が生まれるのです。

 それがなければ、人は一生操り人形。いつも、自分が死んでいる、自分も世界も信頼できない、という危機を生きることになります。

 今日から翻訳が始まる「ガリラヤの言い伝えと≪私≫という感じ」は、その信頼で始まる一人の人の≪私≫の核が、世界史の中で、どのように位置づけられるのか、をきわめてハッキリ、クッキリしてくれる、気持ちのいい文章です。どうぞお楽しみください。

 p321の冒頭から。

 

 

 

 

 

エール・レヴュー(1981 春)

エリック・H・エリクソン

「ガリラヤの言い伝えと≪私≫という感じ」

 

 トーマス・ジェファーソンは、新たに大統領に就任したとき、ホワイトハウスで、一人豊かな夜を過ごすことがよくありました。そのとき、ジェファーソンは、聖書の言葉をいくつもの言語で学んでいたのです。ジェファーソンは、あらゆる行の、あらゆる一節ごとに記しを付けて、どの一節が、イエスが真実な声で自分に語り掛けてくるのかどうか、を知りたいと思っていました。というのも、ジェファーソンは、イエスの本物の教えにしか興味がなかったからです。ジェファーソンは、キッパリ言うのです。「私はキリスト者です。しかも、キリスト者とは、他のどんなことよりも、イエスの教えに真実でありたい、という意味なのです。そして、あらゆる「人間的な」美徳は、イエスご自身にこそあるとするのです。イエスは他には何も求めたりなどしない、と信じています」と。ジェファーソンは、しまいには、聖書を1節ずつ切り取って、それを張り合わせて、それが、「イエスが良しとされること」でした。それは、「ナザレのイエスの哲学」という表題のもとに集めました。それには、「この研究をアメリカ・インディアンに捧げる」との副題も付けていました。私はここで、ジェファーソンがどういう方針で聖句を集めたのかを追求しようというのではありません。 2つのことを除外すること、すなわち、復活も、奇跡や神の癒しなどは全くない、ということに触れます。実際問題、そこに残っていたのは、「山上の説教」でした。

 

 

 

 

 ジェファーソンが聖書研究をしていたこと、それは政治家が、自分独自の判断ではなくて、「イエスがよしとすること」に忠実であろうとするものでした。その際に重要なのが、イエスご本人の≪声≫です。どこぞのデマゴキブリが自分勝手な声を張り上げているのとの対比は、鮮やかすぎるほどです。かたや人類の味方、かたや人類の敵です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする