エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

立憲主義は、人権を政府に守らせる根源的仕組み

2014-07-18 13:52:09 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
個人の自由 = 「違い」を認めること
                                                            オイラン草(花言葉は、合意、一致 だそうです) 最も人間...
 

 最も人間らしいのは、1つの人類を信頼すること。

 最も人間らしい暮らしを否定するのは、「人類を上下2つに分けるウソ」を信じ込むこと。

 

 最も人間らしいのは、対立と少数意見を尊重すること、

 最も人間らしい暮らしを破壊するのは、集団圧力で異質を封じ込め、少数意見を切り捨てること、

 最も人間らしいのは、少数意見になりがちな人権尊重を守る立憲主義

 最も人間らしい暮らしをめちゃくちゃにするのは、立憲主義と話し合いを否定し、一味の利益のみを追求する安倍晋三首相とその一味!!

 

 

 

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セックスの相手を大事にする気持ちにもある、価値判断、決心、そして、約束

2014-07-18 12:15:03 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 大事にする気持ちは、全人類と繋がっている。それは、たとえセックスの相手を大事にする気持ちであっても、変わらない。

 p52冒頭から。

 

 

 

 

 

 セックスの相手を大事にすることは、それが人を大事にする気持ちならば、1つの妥協です。自分が生かされている命を懸けて人を大事にすれば、それは、相手が生かされている命まで体験するものです。本質的に、全人類は、全く同じです。私どもはみーんな、1つの人類の一部分です。すなわち、私どもは1つの仲間なんですね。こうですから、私どもが大事に思う相手とは区別がつきません。≪真の関係≫とは本質的に言って、自分の命を、一人の他者の命に賭ける意思から生まれる行為ですし、そう決心することか生じる行為なんですね。実際問題、これが、結婚を解消してはならないとする考えの背後にある理論的根拠です。それはちょうど、2人は相手を選ぶのじゃなくて、相手のために選ばれているのだから、相手を大事にすることを期待されているのだとする、多くの伝統的な結婚の背後のこの理論的根拠があるのと同じです。現代の西洋世界では、この考え方は、ともに廃れたように見えます。≪真の関係≫は、自発的で、情動的な反応の結果、不意な、抗しがたい感情に囚われたの結果だと考えがちです。 この見方をすると、1人は、関わる相手の特性だけしか見えません。すべての男はアダムに似たものですし、すべての女はエバに似たものです。セッスクの相手を大事に気持ちの中にある大事な点を人は無視しがちです。それは意思の要素です。誰かを大事に思う気持ちは、単に強い感情というだけではありません。誰かを大事に思う気持ちは決断であり、価値判断であり、約束です。≪真の関係≫が単なる感情ならば、お互いに相手を永久に大事にする約束の基にはなりませんよ。一つの感情は、起こっても、消え去ります。1つの感情が永久にとどまるのかどうかをどのように判断するのでしょうか? 自分の行為が価値判断や決心と関係しなければ、1つの感情が永久にとどまるのかどうか、の判断はできないでしょう。 

 

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神様のお名前 + 本気で話します

2014-07-18 05:39:16 | アイデンティティの根源

 

 ウィリアム・ジェームズによると、「私」には、知る本人である「アイ I」と、知る相手である「ミー me」もあるといいます。課題は、「私」が元来持つこの二重性を、バラバラなままにするのではなくて、いかにまとまりのあるものにするのか、ということにあります。

 p324の3行目から。

 

 

 

 

 

 聖書の時代に戻りましょう。ここでは、二つの問いを示すのみとさせてくださいね。1つは、今までに申し上げてきたすべてと、モーセが報告してくれたことに関係があるのかどうか? ということです。そのモーセの報告とは、モーセが神様のお名前を尋ねて、得た答えです。すなわち「私は、今を生きているものです」。もう1つは、今まで申し上げてきたことすべてと、イエスが、すなわち、言葉を運ぶ人が、(本当に)報告されたこととの関係です。その報告とは、「アーメン(本気で)、私はあなた(がた)に話をします」と言って、話を終えるのではなくて、話し始めた、ということです。

 

 

ここは、この文書の中で、最も重要な2か所のうちの一つです。「≪私≫という感じ」は神様のお名前「私は、今ここに生きている存在です」と深ーく関係する。また、「≪私≫という感じ」は、イエスが語り始める際の、冒頭の常套句「アーメン(本気で)、私はあなた(がた)に話をします」とも、深ーく関係するんですね。

 そのことを覚えて、今後の展開を愉しみにしていただけたら、と思います。

 

 

 

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