自由と束縛の別れ道 :「人類を2つに分けるウソ」の取り扱い次第第二章第1節「やり取りのいろんな舞台」は、いかがでしたでしょうか?子どもがおもちゃで遊ぶところから、大人になってからの政治(家庭生活から国際政治・戦争まで...
エリクソンが教えてくださるように、「人類を上下2つに分けるウソ」がどんなに危険で、日常生活から、大きな政治までを支配する場合は、最悪の事態をすぐにでも招くものであることは、このブログでも、再三再四強調してきたところです。
今日のところも、エリクソンがその点を強調しています。1ついつもと異なることがあるとしたら、それは、「人類を上下2つに分けるウソ」には、それに傾きやすい心の構えがある、という点です。それは何なのでしょうか?
それは、幼少期の、最初は寂しい経験であることが非常に多い。寂しい経験は、同時に、悲しい経験であり、残念な経験でしょう。しかし、毎日そんな経験が10回あれば、1年で4,000回。小学校に入るまでには、25,000回の悲しい経験をすることになりますね。
こうなると、その経験には、単に「悲しみ」がくっついているのじゃない。想像してみてください。悲しいことを何度も経験したら、どんな気持ちになるのか?ということを。腹が立ってくるし、憎たらしく思いませんでしょうか?しかも、それが何万回にもなったならば…。
その経験にくっついてくるのは、「激しい怒り」だとか、「殺してしまいたいくらいの憎しみ」なんですね。この「激しい怒り」や「殺してしまいたいくらいの憎しみ」の経験が、無意識の中にガッチリ埋まっていて、ふいに意識に上ってくる。これこそが、「人類を上下2つに分けるウソ」に傾く心の構えなんですね。
そして、今の日本の社会病理、殺人までにもいたるストーカー、秋葉原事件のような無差別殺傷事件、子どもや高齢者に対する虐待、ドメスティック・ヴァイオレンス…の背後にあるのも、同じものなんですね。
ですから、こういう激しい情動がくっついてしまった体験、そのPTSDを、組織的に、治療していくことが、日本では緊急に必要なことなのです。その体制には、残念ながら、はるかに及ばないのが、今の日本の偽らざる状況認識でしょうね。