エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

無意識的暴力 いじめ~ジェノサイド 

2014-07-31 12:34:45 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

儀式化に対する疑い エリクソンのリアルで、みずみずしく、謙虚であること

2013-07-31 01:56:40 | エリクソンの発達臨床心理

 

 第二章「ライフサイクルと儀式化」の第3節「人類を一つと見るのか、それとも、2つに分けて見るか と、儀式化」も、面白かったですね。儀式化について、エリクソンがまとめてくれたところが特に良かったです。日常生活の儀式化は、日常生活の何気ない関わりを、やり取りのあるものにすることによって、お互いに相手の価値を認め合う関係パターンであり、それなしには、<私>が育たない基盤になるものであるのことでした。

 今日からは第2章の第5節「再儀式化(繰り返される儀式化)」に入ります。第4節を飛ばすのは、最初に(3月から4月にかけて)翻訳済みだからです。


 無意識的暴力ほど、恐ろしいものはありませんよね。意識では止められない勢い(ドライヴ)がかかっていることが多いからです。

 学校で一番「問題」になる無意識的暴力、それは、なんといってもいじめでしょう。しかし、そのいじめの心の傾きが、エリクソンが教えてくれているように、戦争やジェノサイドと同じだとは考えないことが、残念ながら、この日本では多いのかもしれません。

 その心の傾きが、「人間を上下2つに分けるウソ」なんですね。日本は仏教や神道や天理教よりも、はるかに多くの人がこの「人間を上下2つに分けるウソ」教を信じているんです。しかも、その強烈な信者であることも知らない。宗教年鑑を調べても、載ってない。

 この「人間を上下2つに分けるウソ」教の信者は、人と出会えば、「私の方が上」かどうかを値踏みします。「私の方が上」となれば、露骨に横柄なエバった態度に出るバカもいますが、それよりも、「謙虚」を演じつつ、我慢ならない状況が来たら、口角泡を飛ばして、感情丸出しでやりこめるバカの方か多い。それでいて、こういう人に限って、「いじめはやめましょう」「いじめはよくないね」などと言うバカをやるのですね。自分がいじめの諜報人であることにも気がつかないバカなんですね。

 あっ、「バカ」、「バカ」とごめんなさいね。「バカ」は訂正して、「知的能力と誠実さに極端に欠ける人」と言い換えておきましょうね。本当の自分の姿を知らないんです。それは、自分自身と対話することを日ごろから怠り、上司の顔色をうかがったり、太鼓持ちをしたりすることに日ごろから心を砕いているからなんですね。「魂」を売り渡している人間なんですね。そういう人は、岡部伊都子さんの詩「売ったらあかん」を味わってもらいたいですよね。そうして、悪魔と取引することはやめにしてもらいたい。

 「人間を上下2つに分けるウソ」教の信者をやめにして、いじめをなくすためには、まず自分が「人間を上下2つに分けるウソ」教の、無自覚な、それでいて、熱心な信者であることを意識的に認めることです。そして「人間みな兄弟」、「みんな違って みんないい」に意識的にシフト・チェインジすることですよね。

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わが子に敵意を抱く母(教員も)

2014-07-31 10:56:15 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 自己中人間は、人も大事にできなけれは、自分自身さえ大事にできない。非常に大事なメッセージですね。これは、例外がない、という数少ない「心理学の法則」のひとつでしょう。

 p57冒頭から。

 

 

 

 

 

 自己中は、それを他者に対して要求がましい人と比べると、たとえば、極端に気を使う母親と比べると、分かりやすいです。その母親は、意識の上では、わが子を少しは好きだと信じているのですが、実際には、自分の子どもに、深く抑圧的な敵意を持ってるんですね。その母親がいろいろ気を回すのは、その母親が子どもを大事に思っているからじゃアなくって、自分の子どもを全く大事に思えないことを埋め合わせにしなくちゃぁ、と思っているからなんですね。

 

 

 

 

 

 フロムもフロイトの弟子ですね。エリクソンと同様に、鋭さ、ハッキリ物の本質をつかむ力を感じますよね。

 フロムが指摘したお母さん、最近では、非常に多くの母親と教員がこれですから、事態は深刻なんですね。

 でも心配ご無用。プレイフルplayfulな関わりを続けていけば、治療は可能だからです。

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心の光

2014-07-31 05:34:02 | アイデンティティの根源

 

 ≪私≫が広々とした≪私たち≫と結びつけば、結びつくほど、イキイキ、ピチピチして生きていける。まさに福音ですね。

 今日はp329の第2パラグラフ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 すでに申し上げたことですが、≪私≫という感じは、生きていること関して最も確かな事実の一つなんですが(実際に、一番はっきりしたことなのかもわかりません)、同時に、最もはっきりしない事実の一つでもあるんですね。心理の人は、≪私≫という感じは、心理学的関心ではなくって、哲学的関心だって考えがちなんですね。後で議論しますか、私の先生、ジグムント・フロイトは、≪私≫という感じを、(ほぼ)無視しようとしました。でも、この主体的な感じが、私どもが意識して生きているその意識の境界線上にあるというのも事実でして、≪私≫という感じが健康であるかどうかは、自分を確かにするものとして、心理社会的な生活を送る生き方の質次第だということも、疑いえないことですね。聖書では、人間らしい≪私≫について一番直接言っていることは、心のともし火という形で、すなわち、自覚の輝きという形で出てまいります。もともとのガリラヤの言い伝えは、マタイの説明の中で出てきます。「ともし火を点けたら、枡の下に置かないで、燭台の上において、部屋中に光が当たるようにするでしょう」(「マタイによる福音書」第5章15節)。「眼は、身体の明かりです。あなたの眼が調子よければ、身体全体も光でいっぱいだ。しかし、あなたの眼が調子悪ければ、あなたの身体も、闇でいっぱいだ。心の中の光が暗ければ、その闇の深さはバカでっかい」(「マタイによる福音書」第6章22節)。実際、私どもの≪私≫という感じのおかげで、私どもは感覚的な気づきがあると、そこにヌミノースの中心を感じることができますね。 

 

 

 

 

 心の光、それは明るく、しかも、温もりに満ちているんですね。

 ですから、心の光があれば、自ずから、陽気で楽しく、しかも、悦びに満ちた毎日が過ごせますよね。親愛なる友よ!

 

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