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エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

絵に描いたようなバカ

2014-07-15 14:16:03 | エリクソンの発達臨床心理

 

 
メンバーを2つに分けるゲーム・遊びと、人を上下に分ける権力的(差別的)見方
  陽気で楽しい心構えがあっても、やり取りの目的を忘れる時には、役割そのものが自己目的化して、運命のおもちゃにされてしまう。実に恐ろしい現実です。しかしながら...
 

 遊びが権力モデルを表す。そのゲームの中で、人の心を支配することを学ぶ者もいる。

 リーダーは、その文化の時空に対する見方によって、その性質が大きく違います。以前にも書いたように、ケネディー大統領のように、頭脳明晰で、人間的にも温かみのある人がリーダーになる場合もあります。また、国連事務総長を務めたダグ・ハマーショルドは、その人格の高潔さで知られていて、今もみすず書房から出ている『道しるべ』は、道を求める人が求める良書と言われています。

 それに比べるまでもありませんが、わが安倍晋三首相の、軽薄ぶり、バカさ加減には驚かされます。何よりも下劣なのは、弱い立場の人の気持ちを想像する力が、極端に弱い点です。

 私の身近にも、そのような「絵に描いたようなバカ」の管理職がいましたよ。その人は、上司に「イエス」と答えること以外には、全く能力がない人でした。ウソを言って、パワハラはする、職場の人に、口角泡を飛ばして感情的に物を言う、頭を下げて挨拶されることを何よりも喜ぶ、陰で同僚をあざけりながら、それでいて「謙虚」を装う…。この手の人物は、例外なく、「人類を上下二つに分けるウソ」の激しい信者です。

 そういう「絵に描いたようなバカ」がいる現場は、新たな、人類皆兄弟、一つの人類のヴィジョンの基、再生することが何よりも必要です。

 

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「新しい恋は、前とは違う」という幻想に傾く人々

2014-07-15 11:58:25 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 相手を知るレベルで、最も浅いのがセックスることで相手を知ったつもりになることでした。しかも、それでは、自分が「相手にされない」ことを克服しようとしても、一時しのぎにすぎないものでしかないものです。いずれにしても、極めて残念なことですよね。

 p50の3行目から。

 

 

 

 

 

 そのレベルを超えて、多くの人にとって、「相手にされない」ことを克服する方法が別に幾通りかあります。自分自身の私的な話、たとえば、願いや心配事を話すこと、自分を子どものように見せること、あるいは、子どもっぽい面を示すこと、世の中に関する共通の関心を作ること、これらはすべて「相手にされない」ことを克服することとして考えていい。自分の怒り、自分の憎しみ、自分が我慢していることなどないことを示すことさえ、親し身と見なされます。こう考えると、結婚した夫婦がしばしばお互いに抱きがちな誤解に基づく魅力が分かるでしょう。こういった夫婦が親しみを感じるのは、ベッドを共にする時か、あるいは、憎みあい、激怒し合うことをさらけ出す時です。しかしながら、こういったタイプの近しさは、時が経つにつれて、薄れゆくものですね。その結果は、新しい人との、別の見知らぬ人との恋を探すことになります。またまた、見知らぬ人が、「親密な」人に変わり、恋に落ちれば、ウキウキし、気持ちも高まるけれども、またまた、その気持ちも次第に弱まり、また別の征服すべき相手、新しい恋を求めることになるのです。いつも、新しい恋は前とは違うと幻想を抱きながら。こういった幻想は、セックスの虜のウソとゴマカシの性格によって、大いに強まります。

 

 

 

 

 この手の幻想に取りつかれると、アメリカでは離婚と結婚を繰り返すことになるでしょう。アメリカでは、生涯3度結婚するのが平均だという話を聞いたことがあるくらいです。日本ですと、そう簡単にはいかないでしょうけれども、離婚か不倫に明け暮れるでしょうね。この幻想の持ち主は。

 どうすりゃ、こんな幻想を卒業できるのでしょうか?

 

 

 

 

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≪私≫という感じ 分かったようで、分かりにくいんです

2014-07-15 06:07:38 | アイデンティティの根源

 

 イエスの本物の言葉を探すのは、本物の信頼を自分のモノにするためでした。

 p322の下から4行目から。

 

 

 

 

 

 私がこのことを強調するのは、イエスのいくつかの言い伝えを顧みることと、私にとって、つまり、ユダヤ・キリスト教文化圏の1人の現代人であり、1人の精神分析家として、「本物だ」、そう、「本物らしい」と感じる内的な論理を指摘する際に、精神分析家の資格を、ささやかながら、活用しなくてはならないからです。しかし、そうするためには、私はまず、イエスと当時のガリラヤの人々を、ユダヤ教の地理と歴史の中で位置づけなくてはなりませんし、そのあとでは、歴史研究を、もっと現代的な研究とすり合わせなくてはなりません。その現代的な研究とは、心理学と神学の境界線上にある、すこぶる重要な現象です。私はそれを、≪私≫という感じ a sense of " I "と呼んでいます。≪私≫という感じは、意識と、言語を持つ被造物に与えられた、最も自明でありながら、それでいて、最も捕えがたい特性です。この現象を取り扱った心理学者は何人かいますが、私は適宜、フロイトの初期の言葉を参照することにしましょう。

 

 

 

  ≪私≫という感じ、言葉になる部分を含みながら、言葉にならない無意識の部分にも渡り、しかも、意識の中心でもある。しかも、「私は…。」と話すときの「私」でもある。日ごろ、そんな≪私≫という感じのことなど、考えることもないでしょう。しかし、その≪私≫という感じを問うことは、深みのある人生と、深みのある悦びを、日々味わうためには、エッセンス、必要不可欠なんですね。

 

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