エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

いくつくかの疑問

2014-07-23 12:42:15 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 自分を大事にすることは、自己中心ではなさそうですね。

 p54の第2パラグラフ。

 

 

 

 

 

 いくつかの疑問が湧いてきます。心理学的な観察をすれば、自分を大事にすることと、他者を大事にすることとは、根っから矛盾するのかな? 自分を大事にすることは、利己主義の出来事と同じなのかな? それとも、反対なのかな? さらには、現代人の自己中心は、知と情と感覚のすべてを挙げて、個人としての自分にだけ関心があることかな? 「その人」は、自分を、社会経済的役割の付属品にしちゃうのかな? その人の自己中心は、自分を大事にすることと同じことなのかな? あるいは、自分を大事にできないから、自己中心になっちゃうのかな?

 

 

 

 

 自分を大事にすることと、自己中心の関係は、同じようでもあるし、似て非なる場合もある。さてさて、いったいどうなっているのでしょうか?

 

 

 

 

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感覚の新鮮にする異化

2014-07-23 06:27:41 | アイデンティティの根源

 イエスは群衆に話すときには、譬え話を用いていました。その目的は一体何だったのでしょうか?

 p326の第2パラグラフ。

 

 

 

 

 

ここで私は、古いルターの聖書に頼らなくてはなりません。今後も時にはそうします。そのルターの聖書は、ドイツ語聖書ですが、知的に決め難いことを詩的に解決していることが多いように思われます。福音書記者たちがはっきり分からなかったのは、イエスがたとえで話すことの意味を、群衆か感じ取る力があると、イエスがみなしていたのかどうか、ということです。マタイは(弟子たちに向って、確かに)イエスに言わせています。「ですから、私はあの人たちに譬えで話すのです。なぜって、あの人たちは、見ていても見えず、聞いていても聞き取れず、理解もできないからです。あの人たちによって、実際問題、イザヤが予言したことが出来事になりました。『あなたたちは、聞いても悟らず、見ても気づかない。というのも、この人たちの心は鈍いからですし、その耳は遠く、眼は閉じているからです。この人たちは自分の目で見ることもないし、自分の耳で聞くこともないし、心で理解することもないので、私は彼らを癒すことができません』と。しかし、あなたの目は幸い、見えるからです。あなたの耳は幸い、聞こえるからです。本気で私はあなたがたに言います。多くの預言者たちと義の人たちは、あなたがたが見ているものを見たいと願い、見ることはできなかった。あなた方が聴いていることを聞きたいと願い、聴くことができなかった」(マタイによる福音書 第十三章13-17節)。

 

 

 

 

 感覚が鋭いことが、癒しと救いの条件なんですね。感覚が鋭いことは、その感覚が無意識にも相わたるからですね。

 

 

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