余暇にしか遊ばぬ大人、遊んでる子どもの一人に、及ばない :子どもの遊びの永遠の遺産人間の想像力も、極めて臨床的なのでしょう。一方では、人は、想像力のおかげで、ビィビィッと来るほどのリアルな感じを、様々なこと、様々な関わりに感じられるよう...
陽気で楽しくしていると、子どもはすぐにそれと分かります。陽気で楽しいがすぐに伝染するのです。
たほう、「真面目な」先生は、「何か小ばかにされたように」思うのだそうです。何故でしょう?
それは、やっぱり自分自身との対話でしょう。子どもは、まだ意識的なものではないけれども、自分との対話を、いわば本能的にしている。
しかし、「真面目」であればあるほど、実は自分自身との対話がないのです。なぜなら、単なる「真面目」の人は、自分を超える存在を知らないのです。あるいは、加藤周一さんの言う≪超越≫、ないしは、宮田光雄先生がおっしゃる≪超越≫とのつながりを自覚していないのです。すると、せいぜい組織との関係で「真面目」でしかない。その「組織」が陽気で楽しいを歓迎しなければ、その「真面目な」先生も歓迎しない。
組織からの自由がその「真面目な」先生にはないのです。基本的人権のど真ん中の、 “自由“ がないのです。
必要なのは≪超越≫との “自由” な関係なのですね。