エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

あらゆる政治のひな形としての、遊び

2014-07-13 13:53:41 | エリクソンの発達臨床心理

 
遊びを辿ると分かること
  あらゆる形のやり取りは、いつでも、人生全てを見通すヴィジョンの中で展開するものである、ということは、思いもよらないことではなかったでしょうか? 「かの...
 

 

 ここを今読み直すと、誤訳がありましたね。そこをまず訂正したいと思います。背景が黄色の部分が訂正箇所です。

 

 生涯にわたって、「遊びの形」だけを辿るために、私どもが手さぐりで進んでいかなくてはならないのは、赤ちゃんとその親が、体を感覚とやり取りの源とするところから、幼子のおもちゃの場面まで進む私どもの道ですし、もう少し年かさのいった子どものゲームまで進む私どもの道です。そのゲームの場面では、政治的行動の予行演習を、初めてやっているのです。つまりそれは、決まった範囲の中で、誰が敵になり、誰が味方になるかということと、誰が指導者になるのかということ、を決める、ということですし、どんなフリをするのかどんな行動のルールにするのかも、みんなで決める、ということでもあります。心理・性的な理論のおかげで、私どもは欲求を宿した体の部位について詳しくなりました。この欲求を宿した体の部位は、子ども達が自由に探索して喜ぶことができますし、自由に何かを補って喜ぶことも合わせてできます。 そしてまた、子ども達が、自分自身と自己愛的にやり取りをすれば、自分を責める気持ちにもなりますからこの自分の体との自己愛的なやり取りをすれば、それは自分自身の体から、<私>を遠ざけことにもなります。おもちゃの世界では、その子どもが、物事が何のために作られているのかが分かることに加えて、物事の構造上、あるいは、物事の素材の性質上、何ができるかが分かるようにもなります。つまり、想像の上で許されることは何なのか? 遊び仲間の中で認められることは何なのか? ということです。しかし、そればかりではありません。実際、何が大人の保護者に許されるようになるか?ということもあります。そこで、子どもの時期と青年の時期を通して、いろんな形の遊びを辿っていけば、遊びの場面がいかに、そして、ゲームがいかに、責任もあり、取り消すこともできない演技(活動)の舞台に次第になり遊びのテーブルや運動場、という小さな粒子が、政治的葛藤という、大きな粒子にじょじょになるのかが、ハッキリ分かることでしょう。青年期になれば、ここ何十年の間に、劇的に、ときには、悲劇的に私どもが見てきたように、犯罪行為から悪戯を、政治的演技から見せかけのお芝居をハッキリ描き出すのは、難しいことが多くなります。工業技術を身に着けた青年のやり取りにおいてと青年の政治的自覚という広い舞台において以上に、能力もあり、思慮も深い、やり取りの新しい舞台を開幕させることが重要なところは、どこにもないのです。

 

 遊びは、学校や会社やスポーツなどで、人間関係を結ぶ際のリハーサルになるということ、そこで、仲良くできる人の範囲、リーダーの決め方、グルーブの中での優先順位やヴィジョンなど、非常に大事なことを決めるひな型になる、というのは、驚くべき事実ですね。

 

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自己愛の延長としてのセックス

2014-07-13 12:39:29 | エリクソンの発達臨床心理

 子どもの自律を認め、その際にも≪真の関係≫を保てる母親は、エリクソンが言う根源的信頼感の豊かな人ですね。それは、嘗て、母親が≪離れていても絆がある≫との実感を持ってきた人だからこそ、子どもが自律して自分から≪離れていっても絆がある≫と実感することができるのです。

 p49の第2パラグラフ。

 

 

 

 

 セックスする相手を大事にする思い

 兄弟のように相手を大事にすることは、対等なもの同士の間の≪真の関係≫です。母親のように親身になって人を大事にすることは、無力なものに対する≪真の関係≫です。この2つがお互い違いがあるように、この2つは、その本質からして、1人の人に限定されるものではない点で共通してもいます。若し私が兄弟の1人を大事にするならば、兄弟すべてを大事にします。若し私が子どもの1人を大事にするならば、私は私の子どもすべてを大事にします。いいや、それ以上です。私は子どものすべて、私の助けが必要なすべての子どもを大事にします。この2つと対照的なのは、「セックスをする相手を大事にすること」です。セックスをする相手を大事にすることは、完全に一体化したい、他の人と繋がっていたいという切なる願いです。セックスする相手を大事にすることは、その性質上、排他的であって、他者に開かれてはいません。これ以上に、ウソとゴマカシだらけの、相手を大事にする思いもありません。

 

 

 セックスする相手を大事にする思いは、≪真の関係≫では全くありません。それは自己中心の拡大版だからです。相手を大事にすることでも、本質的には、ないでしょう。それは強迫的な自己愛の延長でしかないからです。あらゆる悲劇は、この自己愛の延長である強迫から生まれる、と言ってもいいほどです。

 

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イエスの言葉が「本物」と見極める方法論

2014-07-13 07:28:06 | アイデンティティの根源

 

 アメリカ合衆国第三代大統領、トマス・ジェファーソンが、ホワイトハウスで、夜毎に聖書研究をしたのは、イエスの本物の「声」を見つけ出して、そのイエスの「声」に忠実でありたいと願ったからなのでした。

 p321の第2パラグラフ。

 

 

 

 

 

 アメリカ大統領が、きわめて私的に、このように夢中になって聖書研究をしていたことを、1973年に行ったジェファーソン講演で取り上げ、ジェファーソンが「本物」のイエスの声を探したことを描いた時、私が気付かないでいたのは、ごく最近になって、あらゆる立場の神学者たちが「形式批評」という方法論を見つけだしたいたことであり、その方法論は、イエスの初期の言葉が合理的に「本物」であることを、方法論的厳格さを持って見極めるためであることでした。この研究は、もともとドイツでマルティン・ディベリウス(1919)、ルドルフ・ブルトマン(1921)、のちになって、ヨアヒム・エレミアス(1947)などの著作に始まります。しかし、わが国では、シカゴのノーマン・ペリンが、最も目を覚ますような論文を書いています。彼は、ドイツでエレミアスと共同研究をしています。彼の著書『イエスの教えを再発見すること』(1967)のおかげで、私は、イエスの伝道活動の初期、ガリラヤでイエスが言ったことを見直したくなりました。それは、この無名の教師が、自分の生まれ故郷で、「混血がすすんだ」庶民に話しかけた時でした。イエスの言葉が本物であることが、並外れていて、しかも、非常に射程の長い言葉に更なる光を当てることになります。イエスの言葉は、人の口から口に伝えられてから、書物に集められ、それから(もっと後世の形になって)、歴史の中で一貫性があるものになったのでした。

 

 

 

 

 ここは、神学上の専門に関わるところです。この形式批評に始まる聖書批判は、今まで神聖にして侵すべからざる聖書を、理性的に批判的に合理的に見る視点を導入して研究することになったのでした。

 しかし、それは単に理性的である、というだけではなくて、「イエスがほんとに言ったこと」にパッションがある研究でもあった、と私は考えます。

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