エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

他者感覚=自己中心+他者中心

2014-07-28 14:25:40 | エリクソンの発達臨床心理

 

 


儀式化=楕円形 : 儀式化のまとめ その1

2013-07-28 01:18:15 | エリクソンの発達臨床心理

 儀式化の儀式は、神経症の症状では全くない。儀式化とは、そうではなくて、合理性では割り切れない不思議を、切り捨てるではなくて、包み込んでいくためにあるもの、それは同時に、自分の様々な持ち味を生かし、まとめ上げるものだ、というのは驚きです。

 今日は、儀式化について、エリクソンがまとめている部分の前半です。


 人間らしい暮らしは、楕円形。自己中心と他者中心を共存させます。これ自体が二律背反ですね。自己中心と他者中心は同時に成立しないんじゃないのかな? 

 ところが、自分と相手の中に対話があれば、いいんですね。その相手が広がれば広がるほど、「私たち」が普遍的になりますよね。仲間(kind)になる人が増えますから、生活の中で親切(kind)にできる人も増えます。その究極のあり方が「人間皆兄弟」でしょう。横の関係が広がっていくんですね。

 これは、「人間を上下2つに分けるウソ」とは正反対です。この、無自覚な信者さんは、なるべく「上」を狙います。エバリたいんですね。自信・信頼がないからです。人間を上下でしか見ないので、なるべく自分を「上」に位置付けたい。それができないと、あらゆる意味でのイジメをやるんです。この手の人の周りに、パワハラ、アカハラ、イジメ、虐待、悪口、陰口、嘲笑、自己嫌悪などが、必ずついて回ります。自分を周りを良く見つめて見回してくださいね。

 横に繋がるためには、「人間を上下2つに分けるウソ」とは異なる「人間皆兄弟」のような、自分や所属集団を超越する「価値」が必ず必要なんですね。

 

 

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自分の良心を創り出せれば、ゆとりと悦びが必ずある

2014-07-28 12:24:14 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

       自分を大事にすることが、光の道の第一段階。

 自分を大事にすること、それは自己中心とは真逆です。一言申し上げれば、自分を大事にする、ということは、自分の頭で考えることを基本とすることです。ですから、自分を大事にする人は、自分の意見を持ち、必要ならば、それをハッキリ述べる勇気を持っているということになります。ただし、自分の意見を押し通すことには何の関心もありません。大事なのは、話し合いだ、ということを肝に銘じて知っているからです。ですから、丸山眞男教授が教えてくださる「他者感覚」、それも、弱い立場の人に対する「他者感覚」を日々磨いているのです。

 丸山眞男教授について、先日のテレビで、ロナルド・ドーア教授が「偽善を見抜く力が、非常に優れていました」、「政治家の繕い、政治家が言っている言葉の裏にある本音を明かすのが、非常に上手だったし、それを明かす勇気もあった」、と述べていましたね。あれです。

 p41の6行目から。

 

 

 

 

 

 結局、成熟した人は、自分自身の母親になり、父親になるところまでやってきます。成熟した人には、いわば、母なる良心と父なる良心があるんですね。その母なる良心は囁きます。「どんな悪事、どんな犯罪をしたって、私はあなたを大事にする気持ちには変わりないよ。いつでも、あなたの人生に幸あれと願っているよ」と。父なる良心は囁くでしょう。「お前たちが悪を為したから、お前たちは自分の悪事の報いを受けなくちゃならない。もし、私に気に入られたければ、お前たちは自分の生き方を変えなくっちゃぁ、ならない」と。成熟した人ならば、眼に見える父親と母親から自由になり、心の中に父親と母親を創り出すんですね。しかし、フロイトの超自我の概念とは対照的に、人は成熟すれば、取り込んだ母親と取り込んだ父親によって、良心を作るんじゃぁ、ありません。人は成熟すれば、≪真の関係≫を結べるゆとりに基づいて、母なる良心を作り上げることによって、良心を創り出すんですね。同時に、自分の理性と判断力に基づいて、父なる良心を創り出すんです。さらには、人が成熟すれば、その良心に二律背反があっても、母なる良心と父なる良心によって、人を大事にするんです。人が成熟しても、父なる良心のままでしたら、その人は厳格で冷酷でしょう。人が成熟しても、母なる良心のままでしたら、その人は判断力を失い、自分も他者も成長するのを邪魔することになっちゃいますよ。

 

 

 

 

 ここを読んで思い出すのが、エリック・ハンブルガー・エリクソンですね。エリックは、エリックの息子(son サン)になったのです。まさに今日のフロムが述べているところですね。成熟すれば、自ずから父母から離れて、自分の良心を創り出すんですね。そういう人は、自ずから、寛容で、慈しみに満ちた判断力を備え、日々を陽気で楽しく、悦んで生きることでしょうね。

 

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ガリラヤこそ、我がふるさと → ≪いまここ≫を生きる

2014-07-28 06:34:25 | アイデンティティの根源

 

 長血の病のために、全財産をだまし取られたのに、治らなかった女性、どんなにか悔しかったことでしょう、どんなにか悲しかったことでしょう、どんなにか腹立たしかったことでしょう。それでもヤケクソニならなかった。信頼を失わなかった。心のふるさと、ガリラヤがあったからなんですね。

 p328の3行目から。

 

 

 

 

 

  しかし、もう、私どもはガリラヤを離れなくちゃぁ、いけません。なぜなら、イエスの伝道のある時点で、3つの共観福音書においては、決定的な宣言が出されます。その宣言によれば、イエスは、この地域を離れた後、ユダヤとトランスヨルダンにやってきたからです(「マルコによる福音書」第10章1節)。あるいは、「この物語をおしまいにして」、イエスは「ガリラヤから離れた」からです(「マタイによる福音書」第19章1節)。さらにまたは、イエスが天に帰るときが近づいた時に、イエスは決然としてエルサレムに顔を向けたからでした(「ルカによる福音書」第9章51節)。イエスの犠牲を払ったガリラヤでの伝道スタイルは(当時イエスは、33才でした)、当時、キッパリとした決断に基づいていました。その決断とは、イエスがエルサレムで、「≪いまここ≫に生きるということの力」を非暴力によって実践しなくちゃならないなぁ、ということでした。それに続くのが、十字架です。その十字架によって、イエスはキリストと呼ばれるようになり、十字架が、信頼する者たちの集会が歓呼して来ることの象徴となるのでした。この物語のこの部分になると、3つの共観福音書の中では、いろんな形で工夫されていますが、ここでは扱わずに置きましょう。しかしながら、私どもは、私どもが十字架の物語の最後に語られた言葉に着目して、伝道のカリラャの部分に集中してもいい根拠を指摘しておきます。「マルコによる福音書」(第14章28節)によれば、イエスと弟子たちは、最後の晩餐の直後に、オリーヴ山に行ったのだそうです。そこでイエスは、弟子たちがすぐに裏切ることを、非常に感動的なほど親しみを込めた話し言葉で、その悲しい見通しを、弟子たち全てに語って聞かせます。すなわち、「しかしながら、私が天に上げられた後、あなた方よりも先に、ガリラヤに行っています(そして、あなたたちが来るのを待ってます)。」と。イエスが復活について述べた、ここのところは、本物でないのかもわかりません。それでも、この言葉が示すことは、物語のイエスの部分や証言の部分には、イエスが弟子たちと分かち合った気持ちが一つあってもいい、ということです。それは、ガリラヤこそ、わが故郷、ということです。

 

 

 

 

 ≪いまここ≫を生きる力、と申し上げても、分かりにくい。申し訳ありません。これは経験しないと分からない。自転車が乗れるようになることと近い。「自転車に乗る」ということを、いくら言葉で説明しても分からない(?)けれども、実際自転車の乗る練習をしてみたことのある方は、「分かる」。それと同じなんですね。ですから、≪いまここ≫を生きる、ということを実際に生きてみなければわからない。

 もう少し待ってください。エリクソンのこの文書は、そのことを、敢えて言葉で伝えたくて書いているのですから。

 ≪いまここ≫を生きる。そのためには、だーれもが、心のふるさと、ガリラヤを持つことが大事になります。謎でもいい。

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