エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

日本の「いじめ」と「無責任」を打破するためには...。

2014-07-24 13:30:49 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

配慮が行き届いていて、陽気で楽しく繰り返される、日々の習慣

2013-07-23 03:28:04 | エリクソンの発達臨床心理

 

 日常生活の儀式化された習慣は、

1) 陽気で楽しい に形を与える、つまり、陽気で楽しいパターンを創る

2) その陽気で楽しいパターン独特の真面目さと結びつける。

このことは、人と関わる時に、いつも何度でも、意識していきたいことですね。

 ここでは、日常生活の儀式化がさらに詳しく検討されます。

 

 先日、NHKが丸山眞男教授の事を紹介していましたね。丸山眞男教授は、「民主主義は、常なる民主化によって、かろうじて保たれる」、と言います。また、日本人の人間関係は「抑圧の移譲」ということで、軍隊で上官や古参の兵隊が、部下や初年兵をいじめる形で、虐めが連鎖する構造を持っていると言いますし、しかも、これは軍隊の専売特許ではなくて、あらゆる日本の戦時体制を支えた組織にあった、というのが丸山教授の、きわめてすぐれた洞察でした。それは同時に「無責任の体系」です。東条秀機でさえ、戦争をやるのが「空気」だという無責任。

 これは八十年前の話ですが、安部晋三首相とその一味や、東電やJR北海道、そごう、小田急、などの「一流」と言われる会社組織などにも当てはまるものではないでしょうか?そう、丸山眞男教授の分析は、今現在も生きているんです。日本の組織では「いじめ」と「無責任」か今も、主流、多数派です。

 それを変革するのが、一見関係は見いだせないかもしれませんが、陽気で明るい、配慮の生き届いた関わりなんですね。

 

 

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私とあなた

2014-07-24 11:15:17 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 自分を大事にすることと自己中心は、混同されやすいようですね。しかし、この二つは似ているわようで、まったく異なるものなんですね。

 p54の第3パラグラフ。

 

 

 

 

 

 自己中心の心理学的側面を機論する前に、他者に対して大事にする思いと自分に対して大事にする思いが相互に排他的だとする考えの論理的誤りこそを強調しなくちゃいけませんね。自分の隣人を、自分を大事にするように、大事にすることが徳のあることならば、自分を大事にすることだって、徳のあることであって、悪徳であるはずがありません。自分も人間であることには変わりがないのですから。人間に自分を加えない人間の概念など、ありはしませんよね。こにような排除を本質的に矛盾していることは明らかだとする教えがあります。この考えは、聖書の中では、「あなた自身を大事にするように、あなたの隣人を大事にしなさいね」と言い表されていますが、その意味するところは、それぞれ人が自分が一貫していることと、その人ならではの持ち味とを尊重すること、自分自身を大事にすることと、自分自身をよく理解することなどは、他のひとりびとりを尊重すること、大事にすること、そして、理解することと切り離すことなどできない、ということです。自分自身を大事にすることは、他者を大事にすることと切り離せないものなんですね。

 

 

 

 

 

 表面的には、違いが目立つし、関係を持ちたくないなぁ、と言う人がいないわけじゃぁない。それでも、グッと深めていくと、自分とあなたは、繋がっていて、しかも、大した差はない、あわれむべき存在だということが、ハッキリ分かってきますよ。

 

 

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五感に働く言葉のイメージ

2014-07-24 05:44:06 | アイデンティティの根源

 

 「感覚が鋭いことが、癒しと救いの条件なんですね」と昨日のブログで書きましたが、ちょっと言いすぎでしたね。救いはもちろん無条件です。しかし、感覚が鋭い方が、その無条件の救いに気付きやすい、と言うことだけは言えると考えますよ。

 p326の第3パラグラフ。

 

 

 

 

 

  私はここでは、イエスの言葉をいろんな翻訳にすることは致しません。ルターは、最初のドイツ語訳聖書を作った時に、イエスに対するイメージを若返らせましたが、それはちょうど、ルターがドイツ語を若返らせたのと同じなんですね。そのルターは、イエスが譬えを使った訳を解き明かしましたが、それは、譬えによっては、民衆は「理解」できない場合でも、譬えのおかげて、「民衆は自分の耳で聴くことができますし、自分の眼で見ることができます」(「聴く耳と見える眼で[ルターのドイツ語聖書のマタイによる福音書第13章13節からの引用]」)。実際問題、この様に特別な語りの形式の目的は、あなたが理解できない場合にも、他に意味があるのでしょうか?

 

 

 

 

 クリスチャンでないと、「ちょっとついていけないなぁ」と思われた貴方。誤解ですよ。ここは言葉と感覚・イメージの問題を扱っているのです。聴くも見るも感覚ですし、しかも、遠いものを捕らえることができる遠隔感覚器ですね。しかもそれだけではありません。五感を統合する役割を担っているのが、視覚である場合が多いんですね。

 ですから、「自分の耳で聴くこと」と、「自分の眼で見ること」は自分が捕らえている諸感覚から入る情報を統合し、一つのイメージを作り上げる上で、必用不可欠なわけですね。そうすることができれば、そこでとらえたイメージは、若返り、イキイキ、ピチピチと生きたものになるんです。

 私どもが毎日をイキイキ、ピチピチと生き甲斐を持って生きていく上で、この様なリアルな感覚と、言葉のイメージが必要不可欠であることは、お分かりいただけるだろうと思います。

 

 

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