エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

自分を大事にすることは、自己中?

2014-07-22 10:16:31 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 ちょっと間違えましたね。「自分に大甘な気持ち」と昨日翻訳したのは。これは「自分を大事にすること」と訂正いたします。肯定的な意味でフロムはこの言葉を使ったいますから。

 p53の第三パラグラフ。

 

 

 

 

 

 自分を大事にすること

 自分を大事にする気持ちを様々な対象にむけることに対しては、異論は起こらないのに、他者を大事にすることは有徳なことだけれども、自分を大事にすることは罪深いことだ、とする信念があります。この考え方は、西洋思想をはるかに遡ります。カルヴァンは、自分を大事にすることは「ペスト』だと言いました。フロイトは、自分を大事にすることを精神病理の言葉で言いましたが、フロイトの価値判断はカルヴァンと同じです。フロイトにとっては、自分を大事にすることは、ナルシズム、すなわち、リビドーを自分に向けることとと同じことです。ナルシズムは、人間の発達の最初の段階でして、後の段階にある人が、ナルシズムの段階に戻れば、それは人を大事にできないことです。極端な場合ですと、狂気です。フロイトは、大事にすることは、リビドーが現れることだと考えますし、リビドーは他者に向かうのか、すなわち、人を大事にするのか、それとも、自分に向かうのか、すなわち、自分を大事にするのか、のいずれかだと考えます。人を大事にすることと自分を大事にすることは、お互いに排他的であるというのは、自分を大事にすればするほど、人を大事にすることはない、という意味です。自分を大事にすることが罪ならば、私がないことが有徳なことなのです。

 

 

 

 

 フロイトやカルヴァンは、自分を大事にすることは自己中心と考えていたのですね、フロムの考えは、彼らとはことなるようですね。

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イエスがたとえ話をするのは、なぜ?

2014-07-22 05:37:24 | アイデンティティの根源

 

 イエスの福音を最も必要としていたのは、ユダヤの社会で最も差別に苦しんでいる人たちでした。その人たちには、まるで真綿に水がしみこむかのように、イエスの福音が沁みこんでいったのでした。それは、闇の中に光を体験する悦びであったことは、間違いありません。

 p325下から10行目の途中から。

 

 

 

 

 

 こういった群衆から、救いを求める個人(一人のハンセン氏病患者、目の不自由な男、何かに「取りつかれた」男)や、自宅にいる親類縁者の救いを求めるもの(百人隊長、シナゴーグの長老、カナンの女)が現われました。実際、イエスは病人(ペテロの義理の母親が、たとえば、熱を出した)を助けるためにその家々に行くこともありました。たとえ、イエスが一軒の家を訪ねた場合でさえ、すぐに群集に取り囲まれました。ある場合などは、友人たちがまひのある人をベッドに結わえつけて、イエスのいるところに屋根から降ろした場合があるほどです(そのとき、イエスが何と言ったかは、後で議論しましょう)。しかし、時には、イエスは、一人になって祈るため゛に、あの山に登ることが正しいこととして求めました。あるいは、イエスは、自分が話すことを聞き始めた人たちに話をするために、山に登って、「自分の座に座る」ことを、正しいこととして求めました。「山上の説教」をしたのは、まさにそんなときでした。「山上の説教」は、主の祈りに次に来る、ユダヤ教で礼拝の最後に唱えるたくさんな頌栄でした。しかし、群衆に対しては、イエスは、たとえ話で話しました。これは、(正反対のようですが)群衆から最深真理を隠すためでしたでしょうか? それとも、群衆に理解できる芸術作品の形で、最深真理を教えるためであったのでしょうか?

 

 

 

 

 イエスは群衆に話をする時、様々なたとえ話で話しました。99匹のヒツジと1匹の迷える羊のたとえ、放蕩息子のたとえ、なくした銀貨のたとえなど、様々ですね。そのたとえ話をイエスが話す目的は、いったい何なんでしょうか?

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