エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

発達トラウマ障害(DTD)と躁うつ病の鑑別

2016-06-06 08:01:02 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 
トイレの面接室
  悪い良心、恐るべし。 Young Man Luther 『青年ルター』p204の第4パラグラフ6行目途中から。  &nbs...
 

 

 

 「発達トラウマ障害愛着障害」と診断・アセスメントすることの大事さを、改めて考えていただけたらいいですね。

 発達トラウマ障害≒愛着障害の子どもは、ADHDと一番間違います。

 今朝も、今から7年前、311(2011)を遡って2年前、ヴァン・デ・コーク教授が、2009年に出した、発達トラウマ障害(DTD : developmental trauma disorder)をDSM-にハッキリと入れてね、という提案書(http://www.traumacenter.org/announcements/DTD_papers_Oct_09.pdf) の55日目。

 今朝は、妥当性と信頼性の章の26日目。今日は、双極性障害。躁うつ病のことです。

 

 

 

 

 

 

 

双極性障害

感情をコントロールできないこと、衝動性、現実のゆがみで、双極性障害に診られるものは、発達トラウマ障害(DTD)と被ります。しかし、発達トラウマ障害(DTD)に診られる感情がコントロール出来ないことは、そう状態とうつ状態を行ったり来たりすることだけに限りませんし、発達トラウマ障害(DTD)には、分の気持ちを覚えていない解離や、自分の気持ちが消えてしまうような感情マヒもあります。そう状態は誇大な態度の人の特色ですが、自分の感じが傷を負っているか、あるいは、自分の感じを失っているのが特色です。発達トラウマ障害(DTD)は、目的のある行動が増えたり、眠る必要が少なくなったりすることが特色にはなりません(ただし、他の睡眠障害があるやもしれません)。双極性障害に関係する衝動性は、発達トラウマ障害(DTD)の見られる様な、緊張が弱め、恐怖に根差す、危なっかしいことをすることは含みません。双極性障害という診断名は、発達トラウマ障害(DTD)に診られる対人関係が上手くコントロール出来ないこと(人を信頼できないことや、人の気持ちが分からないこと、人とやりり取できないこと、助けを求めることができないこと)には、対応していません。ただし、うつ状態やそう状態の2次障害としてはあり得ます。

 

 

 

 

 

 分の気持ちを覚えていない解離や、自分の気持ちが消えてしまう感情マヒがあったり、人を信頼できないことや、人の気持ちが分からないこと、人とやりり取できないこと、助けを求めることができないことがあれば、双極性障害ではなくて、発達トラウマ障害(DTD)と診断することになります。

 

 

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社会正義の実現の仕方

2016-06-06 02:27:50 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 
エリクソンが診た愛着障害
  政治屋的専門用語、ウソとゴマカシの塊の、あるいは、単なるおバカなアベシンちゃんの言葉遣いが、巷に溢れています。間違いだらけの言葉遣い。アベシンちゃんの国語は「...
 


 

  発達トラウマ障害(DTD)の子ども達も、真実な力によって癒されます。

 The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』p.341の、最後のパラグラフ。

 

 

 

 

 

 トラウマ・ドラマを、ボストン公立学校8年生の必修授業にしようとする私どもの試みは、不幸なことに、お役所仕事の壁にぶつかってしまいました。それでも、トラウマ・ドラマは、「正義資源施設」で住民向けの治療プログラムになって生き延びることになりました。たほう、音楽、演劇、芸術、スポーツ、競争と集団の絆を育てる時代を超えたやり方は、次第にこれらの学校からはなくなっています。

 

 

 

 

 

 トラウマ・ドラマは、発達トラウマ障害(DTD)の治療に役立つものです。でも、それは公立学校の科目にする時には、お役所仕事とバカ役人の邪魔に合いました。アメリカも日本も、その点は変わらないんですね。

 しかし、ヴァン・デ・コーク教授は、発達トラウマ障害(DTD)の子どもの正義と福祉を実現することを願って、「正義資源施設」でトラウマ・センターの運営をしていることが分かります(http://www.traumacenter.org/)。社会正義の実現について、熱く語られるばかりではなくて、日々の活動がその言葉を出来事にしていることが分かります。

 

 

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重度なケースほど、1人の子どもとして見るトータルな視点と、継続して関わる支援が必要不可欠

2016-06-06 01:25:30 | ブルース・ペリー教授の『犬』

 

 

 
トイレの面接室
  悪い良心、恐るべし。 Young Man Luther 『青年ルター』p204の第4パラグラフ6行目途中から。  &nbs...
 


 

 発達トラウマ障害≒愛着障害の子ども達は、脳まで委縮してしまう重症な障害です。そんなに重症な発達トラウマ障害(DTD)≒愛着障害の子どもには、バカで、心を病んだ人が関わってはいけません。禁忌と言うべきでしょう。狂気の沙汰になるからです。何度言っても言い足りません。

 ブルース・ペリー教授の The boy who was raised as a dog の第6章、本のタイトルにもなっている「犬として育てられた少年」のp.129、第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 

 不幸なことに、ローラのケースのように、ジャスティンのいろんな問題は、バラバラな医療制度にために、いっそう悪くなりました。何年にもわたって、高度の脳画像検査や染色体分析みたいに、複雑な検査を受けて、遺伝的な問題を探したものの、ジャスティンは、その同じ医者に二度会うことはあまりありませんでした。ジャスティンのケースを継続して関わる人は誰もいませんでしたし、ジャスティンの生活状況を調べた人も1人もいませんでした。5歳になるまで、検査結果から分かったことと言えば、ジャスティンは、微細運動も、粗大運動も、行動も、認知も、言葉も、ほとんど成長してない、ということでした。ジャスティンは、未だ歩くことも話すこともできませんでした。その医者たちにとっては、ジャスティンが経験している、温もりのある関係が奪われたらどうなるのか、ということは、皆目見当がつかないことでしたから、ジャスティンの脳が関係する能力は、ちゃんと働いていない、としか見えませんでした。

 

 

 

 

 

 近代医学の欠陥ですね。専門化が進んだ結果、患者を専門の部位としては見ても、生活をしている1人乗り人間として見る視点は失われている場合が多い。自分の担当が終われば、「はい、お仕舞い」とばかりに、継続的に1人の人を追跡してよく調べて、よりよく理解する、ということも、蔑にされがちです。

 ケースが重度であればあるほど、その子どもを生活の中で、1人の子どもとしてトータルに見る視点と、継続的に関わる砕いてきな支援が必要不可欠です。

 

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インターメッツォ : 人格と自由の根拠

2016-06-06 00:40:45 | 聖書の言葉から

 

 

 
エリクソンが診た愛着障害
  政治屋的専門用語、ウソとゴマカシの塊の、あるいは、単なるおバカなアベシンちゃんの言葉遣いが、巷に溢れています。間違いだらけの言葉遣い。アベシンちゃんの国語は「...
 

 さあ、こんばんは。森有正の言葉から(『いかにして生きるのか』)。無教会の先輩の言葉を、と思ったけれども、無教会にただならぬ関心を抱いた森有正の言葉にして見なした。

 森有正は、明治の文部大臣、札幌農学校にクラークを招聘したときの文部大臣・森有礼の孫。大江健三郎の師、渡辺一夫が、東大のフランス文学研究室の教授だった時の助教授。1950年に戦後初の留学でフランスに渡ったまま、予定の留学期間を終えても、帰朝せず、そのままフランスで客死。「体験」に対して「経験」を強調したひとでした。

 

 

 

 

 

 人格というものは、自分自身の内的促しから出発する。…けっきょくこの内的な促しこそが、私たちが自由、自由と言っているその自由の本当の自由の根拠なんです。また、したがって人格の基礎になる訳です。

 

 

 

 

 

 大事な指摘ですよね。人格も自由も、内的な促しに基づいたものであることを、キッパリ指摘してくれているからです。つまり、人格も自由も、自分と向かい合わずして、育てたり、手に入れたりすることなどはできません、ということをハッキリさせてくれているからですね。

 教育の目的が、教育基本法が唱える様に、「人格の完成」にあるとするなら、教育に携わる者は、おしなべて、内省の人でなくてはならないでしょう。つまりそれは、

自分より強い立場の人の意見よりも、「内的な促し」を大事にできるような人でなければ、本当の教育はできない

ということですね。

 

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