エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

発達トラウマ障害(DTD)は、人格障害とも鑑別しなくっちゃね。

2016-06-09 07:40:46 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 
ヌミノースの光は人智を超える時に、本物になる
  ≪私≫の基にヌミノースがあるのですから、人間の基本は、飛び上るほどの、心からの悦び、ということになります。まるで ”子ども” でしょ。...
 


 

 「発達トラウマ障害愛着障害」と診断・アセスメントすることの大事さを、改めて考えていただけたらいいですね。

 発達トラウマ障害≒愛着障害の子どもは、ADHDと一番間違います。

 今朝も、今から7年前、311(2011)を遡って2年前、ヴァン・デ・コーク教授が、2009年に出した、発達トラウマ障害(DTD : developmental trauma disorder)をDSM-にハッキリと入れてね、という提案書(http://www.traumacenter.org/announcements/DTD_papers_Oct_09.pdf) の58日目。

 今朝は、妥当性と信頼性の章の29日目。今日は、人格障害のつづき。

 

 

 

 

 

 

 

人格障害という診断名は、感情、行動、人間関係をコントロール出来ない場合は、用いません。人格障害は、(a)子どもの頃を通して発達した、現在進行形の人格とは一致しない人格が出来上がっていることを前提としています。また、人格障害は、(b)発達トラウマ障害(DTD)にひとまとめになっている症状とは異なる様々な症状を前提としています。たとえば、不信、疑り深さ(パラノイド)、感情や対人関係が不安定であること(境界性人格障害、自己愛人格障害)、人を避ける(スキゾイド)、破壊的な行動(反社会的人格障害)などの症状のことですが、これらの症状は、発達トラウマ障害とは、注意、意識、認知に、様々なヴァリエーションがある点で、異なります。

 

 

 

 

 ここも大事な点ですね。

 

 

 

人格障害は、感情、行動、人間関係がコントロール出来ないことは言いません。人格障害は、(a)子どもの頃に発達した、現在進行形の人格と一致しない

 

 

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意図は残忍でなくても、結果は残忍なネグレクト 日本の親達

2016-06-09 06:18:37 | ブルース・ペリー教授の『犬』

 

 

 
人が変わる時
  トイレの神様は、気持ちの神様でもあった? Young Man Luther 『青年ルター』p205の1行目途中から。  &...
 

 

 発達トラウマ障害(DTD)≒愛着障害の子どもは、アメリカでも、ニッポンでも、基本がホッララカシです。

 ブルース・ペリー教授の The boy who was raised as a dog の第6章、本のタイトルにもなっている「犬として育てられた少年」のp.130、2行目途中から。

 

 

 

 

 

アーサーは自分の子どもを育てたこともありませんでしたし、人生のほとんどを一人寂しく暮らしてきました。アーサー自身がとても人付き合いが狭かったし、おそらく軽い知的障害があったでしょう。アーサーはジャスティンを動物を育てるみたいに育てたわけですね。ジャスティンに餌をやり、小屋に入れ、躾をして、時おり優しくしてやる感じです。アーサーは、意図的に残忍だったわけではありません。アーサーは、ジャスティンも、犬たちも、毎日小屋から出してやり、遊んであげましたし、やさしくしてあげましたからね。しかし、ジャスティンが動物のように振る舞うのは、ジャスティンが動物のように扱われているからだ、ということは、アーサーには分かりませんでしたから、ジャスティンが「合格」ではない時には、すぐに小屋行きになりました。ほとんどの時間、ジャスティンはネグレクトされていたんです。

 

 

 

 

 

 なんてひどい扱いでしょう、と思った人が多いのでしょうか?

 でも、あの無知無恥夫婦の片割れのように、調教師さながらに子どもに接する輩もいます。それを「教育」という看板でやるのですから、どうしようもありません

 しかし、それだけではありません。親たちが長時間労働、長時間通勤が普通の日本の労働者の親は、父親も母親も、アーサー並みのネグレクトですからね。じゃなければ、これだけ小学校から青年まで、発達トラウマ障害(DTD)の子ども・青年だらけじゃないはずでしょ。意図的に残忍でない点も、アーサーと同じです。しかし、結果は非常に残忍なネグレクト、になってる訳ですね。

 

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発達トラウマ障害(DTD)の子ども達にとつて、人生はメチャメチャ

2016-06-09 02:11:18 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 

 

 日本でも、アメリカでも、バカ役人は、子どもの人権や人格よりも、形式と面子を優先しがちです。日本軍並みの無責任体制です。人類への犯罪者ですね。発達トラウマ障害(DTD)の子どもの予後は、ホッタラカシだと、犯罪者になってしまう場合もあります。

 The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』p.342の、第3パラグラフから。

 

 

 

 

 (ヴァン・デ・コーク教授が運営しているボストンの)トラウマ・センターは、たくさんの、養子に出された子ども達を治療しています。しかし、グリフィンのお陰で私は発達トラウマ障害(DTD)の子どもの対する新鮮な見方を得ることが出来たんですね。「養子として育てられることを理解することは、まるで外国について学ぶことみたいですね。もしも、その土地の出でなければ、あなたはその土地の言葉を話しませんでしょ。人生は、養子に出された子ども達にとって、メチャクチャになりますね」。安心・安全と大事にされることは、他の子ども達でしたら当然のことなのですが、養子に出された子ども達は自分自身で作り出さなくちゃいけないことなんですね。グリフィスがいいます、「人生はメチャクチャ」ってね。そういうときにグリフィスが言いたいことは、もしもみなさんが養子に出された子ども達を、大切に、鷹揚に育てても、養子に出された子ども達は、大切に鷹揚にされる、ということがどういうことになのか、どう応じたらいいのか、分からない、ということなんです。その子らは、野蛮なことなら馴染んでいるんです。皮肉でしたら、分かるんです。

 

 

 

 

 

 いかに、発達トラウマ障害(DTD)の子ども達が、大事にされて来なかったのか、寛容に扱われて来なかったのかが分かりますでしょ。野蛮な扱い、皮肉な言葉なら馴れている。発達トラウマ障害(DTD)の子どもは、いかに苛酷な生育環境、いかに苛酷な生育歴かが、一目瞭然ですね。

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インターメッツォ : 信頼と真実

2016-06-09 00:57:10 | 聖書の言葉から

 

 

 
ヌミノースの光は人智を超える時に、本物になる
  ≪私≫の基にヌミノースがあるのですから、人間の基本は、飛び上るほどの、心からの悦び、ということになります。まるで ”子ども” でしょ。...
 


 内村鑑三の弟子で、高級官僚を辞して、無教会の独立伝道者になった藤井武。野村實先生も、藤井武の集会に出ていた、と聞いています。内村鑑三が1930年に69歳で亡くなって数か月後、藤井武も42歳に亡くなっています。

 その藤井武は、「信仰と真実」のどちらかを選ばなければならないとしたら真実を選ぶ、と言ったそうです。私は信仰と真実はおなじこと、ビスティスだと信じて疑いませんね。

 私は、ギリシア語で一番好きな言葉は、ビスティス πίστις です。「信仰」と誤訳されていますけれども、「信頼」という意味です。そのくだりを説いた山浦玄嗣さんの言葉から(『イエスの言葉 ケセン語訳』から)。婦人病で長年苦しんだ「長血の女」と言われた人が、全財産を医者に搾り取られた後に、この人なら自分を救ってくれるはずだと信頼して、イエスの服に触った。エリクソンも、「エール・レヴュウ」の論文に取り上げている聖書のエピソードです。その時、イエスは「あなたの信頼(ピスティス)があなたを救ったんですよ」と言ったと言われます。山浦玄嗣さんがこの聖書の言葉をピスティスについて、教えて下さっているところです。

 

 

 

 

 

 ビスティスのさまざまの意味の大本は「信頼」です。…「信仰」という訳語は聖書独特の訳語だということです。聖書独特の訳語というものを私はあまり信用しません。それは聖書学者という、日本ではごく限られた小さなグループの人々が便宜上考え出した訳語であることが多くしばしば一般社会には通用しないからです。…おさな子が母親の胸にあまえるような、穏やかで、安らかで、暖かい情愛に満ちた気持ちが満ちあふれています。…イエスがいいたかったことは、この「やすらかで、安心に満ちた、身も心もゆだねる心、信頼」なのだとわたしは思います。

 

 

 

 

 

 

 素晴らしいと思います。この「信頼」こそ、すべての人の、クリスチャンでも、クリスチャンでなくても、すべての人の人生と、≪本当の自分≫を支えてくれるものなんですね。エリクソンは、≪根源的信頼≫と言います。人生と≪本当の自分≫を根源的に、生死を超えて支えてくれるものだからです

 

 

 

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