エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

発達トラウマ障害(DTD)とパラノイド(妄想性・猜疑性)人格障害の鑑別

2016-06-10 07:05:39 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 
ヌミノースは深~い
  ヌミノースは、集団を包むものであると同時に、集団を超越します。集団を超越しない時、あらゆるケダモノの始まり始まり…。 The life cy...
 

 「発達トラウマ障害愛着障害」と診断・アセスメントすることの大事さを、改めて考えていただけたらいいですね。

 発達トラウマ障害≒愛着障害の子どもは、ADHDと一番間違います。

 今朝も、今から7年前、311(2011)を遡って2年前、ヴァン・デ・コーク教授が、2009年に出した、発達トラウマ障害(DTD : developmental trauma disorder)をDSM-にハッキリと入れてね、という提案書(http://www.traumacenter.org/announcements/DTD_papers_Oct_09.pdf) の59日目。

 今朝は、妥当性と信頼性の章の30日目。今日も、人格障害のつづき。

 

 

 

 

 

 子どもの頃に対人関係で負わされたトラウマと、大人になってからの人格障害の間の、一番強力な経験則的な結びつきは、境界性人格障害とパラノイド人格障害に診られます(ゴリアー等、2003)。パラノイド(妄想性・猜疑性)人格障害という診断名は、感情がコントロール出来ないケースや行動がコントロール出来ないケースには当てはめません。それはパラノイド(妄想性・猜疑性)の副次的な信念にすぎません。また、パラノイド(妄想性・猜疑性)人格障害という診断名は、否定的な自分理解のケースにも当てはめません

 

 

 

 

 

 発達トラウマ障害(DTD)の子どもは、それ自体が重度の精神病ですが、さらにその発展形の精神病が様々にあります。発達トラウマ障害(DTD)の子どもは、根源的不信感が強いわけですから、疑り深くて当たり前です。しかし、その疑り深い部分が発展してしまえば、パラノイド(妄想性・猜疑性)人格障害の完成でしょう。

 

 

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すれっからし誕生

2016-06-10 06:25:15 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 
聖霊は場所を選ばない
  ルターは思いがけずに、劇的に変化をした人でした。 Young Man Luther 『青年ルター』p205の第2パラグラフから。 &nb...
 


 

 発達トラウマ障害(DTD)の子どもの予後が、いかに苛酷な環境で育ち、日々悩まされているのかが分かります。

 The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』p.342の、第4パラグラフから。

 

 

 

 

 

 グリフィンの指摘するみたいに、「見捨てられたら、人を信頼することなどできなくなりますよ、養子に出された子ども達は、見捨てられるってどういうことか身に沁みて分かります。養子に出された子ども達が皆さんを信頼するまで、この子ども達を感化すること等夢のまた夢です」。養子に出された子ども達は、いろんな人を仕切ろうとする場合が多い。もしも、子ども達が学校を移りたいと思えば、この子どもたちは、養父母、校長たち、養子協会、時には判事たちまでも、手繰らなくてはなりません。そういったことのために、この子ども達は政治的な戦力を身に着けて、人々を手玉に取ることを身に着けます

 

 

 

 

 

 すれっからしですね。こうなると、手に負えなくなりやすい。相当肝っ玉が据わってないと、やられてしまいます。

 無知無恥夫婦の片割れは、まさにこのすれっからしです。

 

 

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問いと感情・感覚

2016-06-10 02:38:25 | ブルース・ペリー教授の『犬』
 
ヌミノースは深~い
  ヌミノースは、集団を包むものであると同時に、集団を超越します。集団を超越しない時、あらゆるケダモノの始まり始まり…。 The life cy...
 

 

 発達トラウマ障害(DTD)≒愛着障害の子どもは、アメリカでも、ニッポンでも、基本がホッララカシです。日本の多くの親の意図はともかくも、結果は残忍なネグレクトである場合が多いのです。

 ブルース・ペリー教授の The boy who was raised as a dog の第6章、本のタイトルにもなっている「犬として育てられた少年」のp.130、第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 私は、アーサーが自分の子育てについて話した最初の医者でした。というのも、ジャスティンにとっては残念なことでしたが、私がジャスティンのことを問いかけた最初の医者だったからです。

 

 

 

 

 

 ルーティーン・ワークの、恐ろしさですね。いくらジャスティンが騒いでも、悪さをしても、「またやってんなぁ」くらいの反応で、その内、そんな感慨さえ忘れてしまう。慣れっこに人はなるからです。感覚麻痺、感情麻痺です。

 その点、問いと共に生きているブルース・ペリー教授のすばらしさですね。問いを忘れずにいることが、感覚を研ぎ澄ますことに繋がり、ピィビィッと相手の気持ちが伝わってくることに繋がっています

 

 

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インターメッツォ : 生活そのものが、一本筋の通った礼拝になる

2016-06-10 01:45:18 | 聖書の言葉から

 

 

 
被災地ではやるもの
  被災地で流行るもの。そう言われて、何を想像するでしょうか? 地震、津波、原発事故に伴う放射能汚染。そして、それらの影響? まっ、確かにダンプは多い。道路工事も...
 

 今日は、私のギリシア語の先生、武藤陽一先生の言葉を学びます。目黒区中根にある、今井館聖書講堂で19年前に語られた「聖書は語る」という講座で語られた言葉から(『聖書は語る 今井館日曜聖書講義 第2号』から)。武藤陽一先生は、内村鑑三の最晩年の弟子のお一人、山本泰次郎のお弟子で、その後、埼玉県で、50年以上「テコア聖書集会」を主催されてきました。また、青山大学で講師を長い間されました。都立立川高校が、まだ「府立2中」と呼ばれたときの卒業生ですから、立校の大先輩でもあります。

 

 

 

 

 

 パウロの礼拝観をもって言えば、「自分の身体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとしてさざげなさぃ。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマ一二・一)ということでしょう。神を礼拝するのに一定の日時と、一定の場所と、一定の方式があるわけではありません。ひとりびとりがそれぞれの立場で、それぞれの戦いを戦いながら、神を信じ、キリストに頼り、どんなに破れの多い生活であってもそのすべてをささげて、誠実に、敬虔に生きていく生活、その生活全体が礼拝なのです。それこそが真理(生活の現実、リアリティ)をもってする礼拝であると思います。だからこそパウロは「これこそ、あなたがたがなすべき」、神の恵みとキリストの福音にふさわしい、道理にかなった(「なすべき」(教会訳では「霊的な」と訳されたlogikosという語の原意))礼拝であると言ったのです。

 

 

 

 

 

 この礼拝を毎日していると、神様の働きを実感することができますね。一本筋の通った生活をしようと思ったら、たちまち、波風が立ちますでしょ。「円満な」(=偽善的な)人たちは、眉を顰めたり、陰口を言ったりするでしょう、「大人げないね」と。

 ですから、生活そのものが、ささやかな戦いの連続になります。しかし、その戦いは、片意地張った、眉間にシワを寄せた戦いかと言えば、全く違うものでしょう。なんか遊びのある、なぜか悦びのにじみ出る、戦いになります。最後の責任を負って下さるのは人間ではなくて、何時も共に居て下さる神様だ、ということを信頼しているからです。「最後から一歩手前の真剣さ」が生まれるのは、その自覚があるからです。

 あなたも、一本筋の通った暮らしをしたいと思いませんか? オモロイですよ!

 

 

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