年と共に、人はダメになるものなのか?
生命そのものの鼓動コマツグミ 朝の鳥のハーモニー。毎日耳をそばだてたいものですね。 The Sense of Wonder 『不思議を感じる心』......
今のニッポンでは,お金以上の価値は知らない人が多い。「なんでも鑑定団」という話になりがちでしょ。金勘定が何よりも大事。あるいは,とうの昔に村はなくなっても,会社や学校やお役所の中のムラ社会,タコツボ社会でいきているのが,現代においてさえ,ニッポン人の真の姿でしょう。≪超越≫などと言われても,ピンとこない人がほとんどです。あるいは,「お高く留まっていること」,「組織になじまない輩」くらいのもんでしょ。
聖書には,≪超越≫という言葉,翻訳語はありません。神そのものが≪超越≫なので,そして,神様を信頼することは,神様の≪超越≫性は,日々のことなので,ことさら≪超越≫などと別の言葉でいう必要がなかったからかもしれません。
以前ブログで取り上げましたけれども(聖書の言葉: 素晴らしさは「超越」入り - エリクソンの小部屋 - Gooブログ), ὑπέρ ヒュペルというギリシア語が,「超越」の意味になります。その≪超越≫入りの言葉が,『新約聖書』の中のパウロの有名な手紙「ローマ人への手紙」に出てきます。第8章です。いつものように,前田護郎先生の翻訳を見ておきます。
「神の愛の絶対
31それではわれらは何といいましょう。神がわれらの側ならば、だれがわれらに敵しましょう。32おのがみ子を惜しまずにわれらすべてのために死に渡された方が、どうしてみ子といっしょに万物をわれらに恵まれないでしょうか。33だれが神に選ばれたものを訴えましょう。義となさるものは神です。34だれが罰しましょう。なくなった方、否、むしろ復活された方であるキリスト・イエスが神の右にいまして、われらにとりなしもなさいます。35だれがわれらをキリストの愛から離しましょう、苦難か、なやみか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。36聖書にあるように、あなた(神)のためわれらはひねもす死に、ほふられる羊と見られています。37しかしこれらすべてのうちにも、われらを愛された方によって、われらはかち得てあまりあります。38わたしは確信します、死もいのちも、天使も司も、現状も未来も諸権力も、39高きも低きも、そのほかいかなる被造物も、われらの主キリスト・イエスにある神の愛からわれらを離せないことを。」
この「かち得てあまりあります」というのが,≪超越≫ ὑπέρ入りです。このὑπερνικῶ ヒュペルニコーは,辞書によれば,ὑπέρ ヒュペル,超越+ νικῶ ニコー,勝つ=「かち得て余りある」,「勝利者以上である」ということになるそうですね。
私どもも,ὑπερνικῶ 勝ち負けを超えて,勝利者以上のゆとり,勝利者以上の喜びを,日々味わって生きて生きたいものですね。