「患者たちは、
脳脊髄液減少症治療に詳しい医師を
受診した段階で、
すでに、選抜されているようなものです。」
こう私が考える理由を
少し詳しくお伝えさせてください。
脳脊髄液減少症の医師を受診した段階で、
患者は
脳脊髄液減少症の可能性が極めて高い
患者だけが、
自然に選抜されて
受診しているようなものだ。
と私は思っています。
なぜなら、
「脳脊髄液減少症」なんて、医学の教科書にものっていない、
家庭の医学書にも書いていない、
聞きなれない病名を偶然知る幸運に恵まれ、
自分の症状の類似点に気づいただけでも、
すでに、患者たちはフルイにかけられているからです。
しかも、そのフルイはひとつだけではありません。
フルイの網の目は大きなものから
中ぐらいのもの、
小さなものへと、どんどん小さくなっていき、
幾重にも、幾重にも続きます。
受診できた患者たちは
その幾重にも重なるフルイにかけられてもなお、
残った患者たちなのです。
最後の最後に残った患者だけが
脳脊髄液減少症治療に取り組む医師を
受診しているようなものです。
原因不明の病の森に迷いこみ、
その森の迷路の中で、他の患者たちが、
次々とすでに認知されている病名が判明していく中で
どこにもあてはまる道を探せず、
迷いに迷って、
右往左往し、迷って迷って
病名不明の森から出られなくなり、
遭難してしまう患者もいます。
つまり、
症状と無理解とドクターショッピングに疲れ、
自力で病名をつきとめることに
力つきていく患者たちもいて、
症状に耐え切れず、自らの命を絶ってしまう患者や、
高次脳機能障害での不慮の事故で
命を落としていくものもいたと
思われます。
自分の病名を突き止めることをあきらめたり、
医師がつけてくれた、既成の病名を信じ、
その治療を続けていこうとする患者もでてくる中で、
偶然の幸運が重なって導かれ、
今まで草に隠れていて見えなかった、
深い森の奥のいばらの道を見つけ
歩きすすめたものだけが、
新たな病名への道につながるのです。
森は深く、道は荒れて、草に隠れ、
道を見失いそうになりながらも、
そこを手探りで、道を切り開いて、
必死で歩いていったら、
やがて遠くに光が見え、
光を目指して、さらに必死で歩き進めていったら、
いきなり視界が開け、
やっと森の出口にたどりつき、
暗い森から明るい外に出てみたら、
その出口のところに
「脳脊髄液減少症の
治療への道はあちら」
との
道案内の看板を
見つけたようなものです。
少なくとも、私の体験では、
そんな感じです。
しかし、
そこがゴールではありません。
そこからさらに、
新たな迷路が待っているのです。
こんどはそこから、
脳脊髄液減少症治療に取り組む医師までの道のりが
さらに遠く、
さらなる迷路が待っているのです。
その迷路を抜け出たものだけが、
脳脊髄液減少症の医師のいる病院にたどりつけるのです。
つまり、患者は
さらにフルイにかけられるのです。
(つづく)