きのう、あれから
この巨大きゅうりを食べてみました。
お味は、意外なおいしさでした。
皮をところどころむいて、
種をスプーンでえぐって、
薄切りにして、ビニール袋に入れて、浅漬けの素で漬けて、
お昼におにぎりと一緒に食べたら
うりの浅漬けのようで、あっさりとして、とてもおいしく
いただけました。
巨大きゅうり=「うり」や「スイカの皮」の味ですね。
さらに、夕食も、
夏ののこりの「冷やし中華のたれ」を利用して漬けこんで
食べたら、これもおいしかった。
巨大きゅうりは1本で
普通のきゅうりの4本分はゆうにありました。
食べられないかも?と思ったきゅうりが、
以外においしかったことと、
今日は朝から一日体調もよく、とても体が軽く、
自転車で近所を一周してくることもでき、
背中に重苦しさがでないことと、
手の指のシビレがなく、
手の指の先々まで、自分の意思が伝わるような
神経が伝わっているような、
「手が自分の手」になったような、当たり前だけど、ひさしぶりの感覚で、
脳脊髄液減少症になる以前の、これが健康な普通の体なのかと、
大昔の記憶がよみがえり、
このまま完治してしまいそうで、
とても、幸せな一日でした。
しかし、ささやかな幸せ気分は、長くは続きませんでした。
夜になって、
深いゆううつが私を襲いました。
普段、考えないようにしている
過去のことに、
手続き上、向き合わねばならないできごとがあったからです。
過去のつらい出来事を、思いだしているうちに、
だんだんと心は沈み、
なんで私はこんなことになったのか?
あの事故にさえ、あわなければ、
あの日あの時、車ででかけなければ、
私の人生はこんなはずではなかった、
せめて、脳脊髄液減少症の病名がこの世にできた後に
交通事故にあっていれば、こんなひどい目には
あわなかったのに・・・
などと思いはじめてしまい、
つらくて、いたたまれなくなりました。
そんな時、母に、
たまに弱音を吐きたくても、なぐさめの言葉がほしくても、
ゆっくり話しがしたくても、あたたかな励ましがほしくても、
頼みごとをしたくても、
いつもいつも母は「忙しい、忙しい」
「毎日が忙しくて、楽しくてしかたがない」で、
私はとりつくしまもありません。
母はあいかわらず、元気で、
私のことなんかおかまいなく、自分の人生を、
元気に楽しく生きています。
健康に恵まれ、年をとってもなお、
自分の人生を、自由に謳歌できる、
健康に恵まれた幸せな人たち・・・・。
うらやましさと、ねたましさを感じ、
自分がミジメになってきます。
結局は、
交通事故被害者になってしまった自分のやられ損、
結局は、そんな事故にあってしまった私の運の悪さだから
自分のせい?
自業自得?
そう自分を責めて、納得させてみようとする。
病名が判明してもなお、
今までの私の経過を、
すべて身近で見てきた親でさえも、
私の抱えてきた深刻な苦しみには、いまだにわかるはずもなく、
今も無関心なまま・・・・、
そういうことを、改めて知る時、
深い孤独感に苦しめられるのです。
さまざまなゆううつな気分が、ふつふつと湧き
そうなると、
歯止めがきかなくなり、
やききれなさと、
なにもかもやめてしまいたくなる思いとで
やけになってきて、
自分の人生をも、もう、すべてリセットしてしまいたいほどに
落ち込んしまいました。
体はやっと回復してきても、
心は、いつも危うい状況にあります。
過去を振り返ることは、
私にとって、とてもつらいことです。
できれば避けたいことですが、
どうしても、これからを生きていくために、
過去を、ふりかえらなくてはならないこともあります。
脳脊髄液減少症が、長く放置されればされるほど、
よけいに、交通事故との因果関係を周囲は認めてくれなくなり、
たとえ生き残って、脳脊髄液減少症と後にわかっても、
心残った傷はなかなか癒えません。
せっかく今日感じた、小さな幸せも、
過去を思いだすことや、
厳しい現実に直面すること、
悩みの相談ももちかけられないほど、
弱音も吐けるスキもないほど、とりつくしまもない、
忙しく元気に生きる母の対応で、
一瞬にして、
深いゆううつの底に
沈んでしまいました。
私の苦しみを
心からわかってくれる人は、この世に一人もいない。
そんなことは、
人は誰でもあたりまえのことなのですが、
改めて、そう感じると、
とてもつらいし、悲しいのです。
それでも、なお、死ぬわけにはいかず、
生きなければなりません。
それがまた、つらいのです。
いっそ死んでしまえたら、
どんなに楽かと思ったりもします。
脳脊髄液減少症とは、なんて残酷で
被害者をさらに傷つけ、追い詰める
見えない交通事故後遺症なのでしょう。
もう、二度と、
過去の交通事故被害者のような悲惨な思いを、
今後の事故被害者には
繰り返さないでほしいと思います。
否定派医師の方がたと、
後遺症と認めない保険会社は、
もうこれ以上、
本当の被害者をさらに苦しめる行為は、
お願いですから、
やめてほしいと思います。
あなた方に、
もし、人間の血が通っているなら、
わずかでも人を信じる気持ちがあるのなら、
どうか、真の被害者の苦しみは、信じて、
わかろうとして助けてあげてほしいのです。
それができないなら、
医師も、保険会社もやめてほしいのです。
善良な真の被害者の苦しみにも耳を傾けず、
最初から詐欺師のような犯罪者と
同様に疑ってかかる方がたは、
医師にも保険会社にも、ふさわしくないと、私は思います。
自分には何も落ち度のない交通事故で
脳脊髄液減少症になっていたのに、
医師や周囲の無理解にさらされ、傷つけられ続け、
自分には何の落ち度もないことで、
病名がわからず申告できなかったのに、
さらに保険会社に、無視され、
保険金めあての詐欺師のように扱われるのでは
交通事故で脳脊髄液減少症になって、健康を奪われ、
働けなくなり、
さらに無理解と誤解にさらされ、
性機能が落ちたり、
怒りっぽくなったり、
付き合いが悪くなったりで、
すべての人間関係も悪化させ、失い、
今までの日常や将来の夢をすべて断たれた被害者が
絶望して、自殺に追いこまれても
不思議ではありません。
この病の、
見えない症状と悲惨さを体験して知っている私は
そう本気で思っています。
何の罪もない被害者を、
さらに苦しめ、
追い詰めることに加担した人たちの行為は、
犯罪に近いものだと、私は思っています。
これ以上、この病を否定する行為は、
被害者を詐病扱い、詐欺師扱いする行為は、
人権侵害だと思います。
これ以上の患者、被害者いじめは
絶対に、許せません。
交通事故で、
脳脊髄液減少症になることは
まぎれもない事実です。
「ありえない、そんなバカな」
と疑うのなら、
自分が実際にこの病態になってみればいいのです。
脳脊髄液を大量に抜いてみるとかすれば、
この病の症状のいくつかを体験できるのではないでしょうか?
また、なんらかの激しい衝撃を体に受けるか、
首を激しく前後に揺さぶられれば、
見える体の傷はなくとも、症状が
体験できるのではないでしょうか?
まあ、症状はすぐ体験できるとは限りません。
症状は、時間差で出てくることもありますから、
水道漏れが1ヶ月2ヶ月過ぎて、
請求書が来て、いつもより水道代が高いことで、
やっと水漏れ被害に気づくように、
脳脊髄液減少症の症状はある程度、
脳脊髄液漏れの閾値が過ぎてから、
現れるのです。
水道管の水漏れに後で気がつくように、
症状も時間差で出てきますから、
症状体験まで、数ヶ月から数年、お待ちいただくかもしれませんが・・・
本当に実際に体験でもしていただかなければ、
この後遺症の存在を、否定する方がたには
信じてもらえないのでしょうか?
私たちの言っていること、訴えていることが
いつまでたってもこの世の方がたに、
信じて、助けてもらえないのでしょうか?
どうか、もうすでに、
この見えない後遺症で充分苦しんでいる被害者を、
さらに傷つけ、いじめることはやめてください。
これ以上、交通事故被害者をどうか苦しめないでください。
お願いします。