福岡小1男児殺害事件に感じたことの続きです。
私だって、
1歩間違えば、何らかの罪を犯していたかもしれません。
こうして今、ただの患者でいられる事は
幸運以外のなにものでもありません。
なぜなら、
思考力低下や、判断力低下、
手足の急な脱力で、
クラッチ操作ができにくくなったり、
ハンドルから手がすべり落ちたことや、
異常な眠気や、一瞬意識が飛ぶ症状で
交通事故を起こしそうになったことは
何度もありますし、
縁石乗り上げや、自分でぶつけた小さな事故は、数限りなくあります。
記憶障害やもの忘れで、
家族を災害やトラブルに巻き込みそうになったこともあります。
ぼんやりしていて、まるで夢うつつの中で行動しているようで、
社会のあたりまえのルールすら、
一瞬思考が混乱してわからなくなり、
お店で、お金を払うのさえ、
うっかり、忘れそうになったこともあります。
また、怒りが自分の意思では止まらない感じで、
周囲に対し、暴力的になったり、
性格が変わったように今まで使ったこともないような
暴言を吐いていた時期もあります。
今思うと、これらの症状は、
脳脊髄液減少症による、
高次脳機能障害や前頭葉の機能低下のよるもの
だと想像できますが、
当時はどうして自分が、こんなにキレやすくなったのか?
どうして思考がこんなに混乱するのか?、
何が原因でこうなるのか?
まったくわかりませんでした。
見えない体の症状と、
見えない精神症状と
でも、
あきらかな自分の異常を、いくら医師に訴えても
わかってもらえません。
周囲に相談しても、
いつも「考えすぎ、気にしすぎ、」
「誰にでも多少はそういうことがある」と、
笑い飛ばされるだけです。
病名がつかないから、治療法もわからず、
いつまでたっても治りません。
医師が異常なしといえば、
周囲も異常なしの人間と、私を判断し扱います。
つまり、
怒りっぽさも、物忘れも、判断力のなさも、ミスが多いことも、
性格の悪い人、人付き合いの悪い人、
とっつきにくい人、
使えないダメな人間、と評価されてしまうのです。
思うようにならない自分の、
あきらかな異常を感じていても、
重病のような体調や
何かの難病のような症状を感じていても、
ことの重大さを感じているのは自分だけなのです。
誰も真剣にこの症状の相談にのってくれません。
そんな状態で生き続けることは、
非常につらいことです。
私も、今までに何度か死に逃げたくなりました。
いえ、正確に言えば、
「生きたいし、やりたいことはたくさんあるのだけれど、
自分ではどうすることもできない症状の苦しみから
逃れたい」とただその一心です。
楽になりたい、イコール
自分の肉体を脱ぎ捨ててしまいたい、
ということです。
精神的にも現実から逃げたい、というだけです。
本当は元気になって、
思い切り生きたいのです。
無理解な家族に怒りを通り越して、
激しい恨みを感じたこともあり、
やりきれない思いは、やがて復讐心に変わって
いったこともあります。
今もうらみが完全に消えたわけではありません。
完全には許す気持ちにはなかなかなれません。
心の傷が癒えるのには
まだ、時間がかかりそうです。
脳脊髄液減少症とわかってからも、
ブラッドパッチ後の症状の波に耐えていたころも、
血縁の無関心は続きましたから、
私も、やけになったり、自制心がきかなくなって、
自分の血縁には、
泣きわめいたり、物をなげたり、
怒りを言葉でぶつけたりもしていました。
これはブラッドパッチ治療後のことですが、
体がきつくてできないことを、必死で頼むと、
手伝ってくれるどころか、
「それはアンタの仕事でしょう?」と、
血の繋がった健康な人間に
言われたこともあります。
確かに私の仕事かもしれない・・・。
でも、健康な人には簡単なことでも、
脳脊髄液減少症患者にとっては
重労働に感じてしまということが、
脳脊髄液減少症の激しいだるさや脱力を体験したことのない健康人には、
決して理解してはもらえません。
ひどいことを言われても、
当時は声を出すのもしんどいし、
言い返す気力もでませんでした。
私たち患者の必死のSOSは、SOSとしてではなく、
自分の仕事を
「人に押し付けてやらせようとする
怠けものの言動」としてしか、
周囲には受け取られないのです。
医学に認知された重病なら、
そんな冷たい仕打ちを受ける患者は
あまりいないと思うのです。
脳脊髄液減少症の、症状の苦しさや深刻さが
社会はおろか、
身近な人間にさえ伝わらないから、
こんな仕打ちにあうのだと思います。
交通事故から数年後、症状が一時とてもひどくなった時があります。
激しい頭痛、手足の脱力、不眠、朝起きられない、
疲れて疲れて動けなくなり、
日常生活もままならない、
そんな時、
必死で母に助けを求めても、
母はやらなくてもすむような道楽に近い仕事や、
友人知人の頼みごとや世話やつきあいを優先して、
いつも
私の頼みは後回しでした。
だから、私の番になるころには
母はいつも疲れきっていて、
充分助けてもらえない状態でした。
私の必死の訴えは、いつも母には「甘え」としてしか
伝わらなかったようで、
このことは、今も私の心の中に
深い悲しみとなって沈んでいます。
それに、
この病の症状の深刻さが伝わらないことは、
病名判明後も続いています。
いまだに
心から母を許すことができません。
いつか母も体が弱った時、
少しは私の当時の気持ちをわかってくれるかもと思っています。
元気なうちは、多分母娘でわかりあえるのは
無理だとあきらめています。
脳脊髄液減少症は親子や夫婦や、家族や
すべての人間関係にも溝をつくるのです。
私は、この
親にも第一に思いやってもらえなかったほどの
健康そうに見える外見の、
脳脊髄液減少症という病が憎いです。
積極的にわかろうとしてくれない親も憎いです。
今も癒されない傷が残り、
なんともいえない悲しみと怒りが消えずに残り
苦しんでいます。
さまざまな見えない体や精神の苦しい症状に加え、
周囲がまったく理解してくれないこと、
病人と認められず、力を貸してくれないこと、は
患者をこれほどまでに追い詰めるのです。
これほどまでに患者を苦しめ傷つけるのです。
「理解されないこと」その絶望感は
脳脊髄液減少症のどんな激しい症状よりも患者を追い詰めます。
どんな体の症状よりも、
理解されないこと、
病人と認められず、周囲の対応が冷たいこと、
周囲に快く手をさしのべてもらえないこと、
思いやってもらえないことが
患者にとって一番つらいのです。
医師にも家族にも周囲にも
社会にも、
「理解されないこと」
「暖かく、心よく、周囲に支援してもらえないこと。」
「助けてもらえないこと。」
それどころか、患者自身のせい、交通事故とは関係ないだろうと、責められたり、
冷笑されたり、説教されたりすること。
それが
脳脊髄液減少症患者の
最大の苦しみなのです。
これが、症状が見えない、
とても病人になどに見えない、
脳脊髄液減少症の本当の恐ろしさ であり、
この病の苦しさが社会に認知されていないために巻き起こる、
脳脊髄液減少症の二次被害だと思います。
医師にも、保険会社にも、加害者にも、
家族にも、職場の人にも、地域の人たちにも、
周囲の人間にも、友人にも
誰にも
思いやってもらえないこと、
それが、病名のない時代、何の罪もない交通事故被害者に
現実に起こっていたということを
どうかわかってください。
おそらく、脳脊髄液減少症の病名が広まりつつある今も
起こり続けていると思います。
どうか、どなたか、
そういった方がたを、早く、早く、助けてあげてください。
お願いします。
参照:「病人にとっての3つの不幸、飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ」より