西塘 <3>
西塘に関する資料は乏しく文献資料として
八重山島由来記(1713年)・琉球国由来記(1731年)
球陽(1743年)などがあるが
この文献資料を通して、沖縄の歴史学の先生方により
西塘の生涯・事跡が多く残されているが
元が同じ史料であるから
若干の差はあるがほぼ同じ記述である
西塘は、いつ生まれ、どこに生まれ、いつ死んだか
両親は誰か、兄弟はいたのか、結婚はしていたのか
西塘に関する記録は少なく上記の史料のみである
しかし、八重山の竹富大首里大屋子として帰郷し
行政機構を整備し新たな政治を行い
八重山を統一安定させ八重山の政治の基礎を造ったとされ
農業の改革を指導し日時計、時報の鐘の設置する
また西塘は愛郷家といわれ
竹富島を想って作った歌、しきた盆(ぶん)がある
島の人々の心を一つにする歌として
島最大の祭り種子取り祭りの奉納芸能として
現在も行われている
西塘最大の功績は、園比屋武御嶽の神を勧請(分霊)して
八重山で唯一琉球王府につながる
国仲御嶽を創建したことであると言われる
1550年に西塘は55歳で逝去し彼の屋敷跡に埋葬された
その地に功績を讃えて「西塘御嶽」を創建した