菊隠宗意 <4>
薩摩軍が奄美大島に到着の報告を受け
琉球国は和議を申し入れるため
天龍寺の以文を派遣したが、以文は恐れ
隠れて接触すらしなかった
後に勘を蒙ったと言われている
薩摩軍が今帰仁運天港に到着したとき
王府は再び和睦の使者として
三司官名護親方・茶人の喜案そして菊隠らを送った
戦禍の中をなんとか今帰仁に着き、和睦を申し入れた
交渉の結果、名護親方が人質になり
首里で和睦の交渉を行う事が決まった
薩摩軍は進攻し、三月二十九日読谷大湾に上陸した
軍は二手に分け本体は陸路で首里を目指した
一方の船隊は那覇港へ
四月一日首里に到着し、二日から講和交渉が開始された
琉球側は摂政具志頭朝盛・喜案・菊隠ら八人が列席して始まった
組織的な軍事行動は終結した
四日尚寧王は降伏(無条件降伏に等しかった)し首里城を下城した
五日から城内荷物御改し宝物の目録作成が行われ
十日~十三日かかった
五月十五日尚寧王は、薩摩へ連行され
翌年1610年尚寧王と随行者百余人(琉球側)藩主島津忠恒と共に
徳川将軍に謁見のため江戸へ向かった、そのとき菊隠も同行している
この戦争で薩摩側は、二百人近く戦死者・多数の負傷者が出た
琉球は戦兵・住民を含めると薩摩より数倍あったと言われているが
正確な数の記録がない