人生黄昏時

 老いを心身ともに感じ

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沖縄の仏教 【21】

2017年11月01日 00時01分42秒 | 日記

  菊隠宗意 <4>

薩摩軍が奄美大島に到着の報告を受け

琉球国は和議を申し入れるため

 

天龍寺の以文を派遣したが、以文は恐れ

隠れて接触すらしなかった

後に勘を蒙ったと言われている

 

薩摩軍が今帰仁運天港に到着したとき

王府は再び和睦の使者として

三司官名護親方・茶人の喜案そして菊隠らを送った

 

戦禍の中をなんとか今帰仁に着き、和睦を申し入れた

交渉の結果、名護親方が人質になり

首里で和睦の交渉を行う事が決まった

 

薩摩軍は進攻し、三月二十九日読谷大湾に上陸した

軍は二手に分け本体は陸路で首里を目指した

一方の船隊は那覇港へ

 

四月一日首里に到着し、二日から講和交渉が開始された

琉球側は摂政具志頭朝盛・喜案・菊隠ら八人が列席して始まった

組織的な軍事行動は終結した

 

四日尚寧王は降伏(無条件降伏に等しかった)し首里城を下城した

五日から城内荷物御改し宝物の目録作成が行われ

十日~十三日かかった

 

五月十五日尚寧王は、薩摩へ連行され

翌年1610年尚寧王と随行者百余人(琉球側)藩主島津忠恒と共に

徳川将軍に謁見のため江戸へ向かった、そのとき菊隠も同行している

 

この戦争で薩摩側は、二百人近く戦死者・多数の負傷者が出た

琉球は戦兵・住民を含めると薩摩より数倍あったと言われているが

正確な数の記録がない

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