人生黄昏時

 老いを心身ともに感じ

  日々の生活で思った事を記す
  

沖縄の仏教 【22】

2017年11月05日 04時40分55秒 | 日記

  菊隠宗意 <5>

尚寧王一行は、将軍秀忠に謁見のため江戸に

菊隠も同行した、1610年8月28日の事である

 

そのとき薩摩藩は幕府から琉球の支配権と

奄美諸島を割譲し直轄領地として承認を得た

 

その道中摂政具志上王子が病死している

(静岡市清水区清見寺に葬られている)

 

1611年薩摩から「琉球は古来より薩摩藩の付属国である」と

記述された起請文書に、署名を要求され尚寧王と三司官は受け入れ

拒んだ三司官の一人謝名利山は斬首された

 

薩摩藩の支配は明治維新まで、二百七十年続くことになった

 

また貿易管轄権などの「掟十五条」を認めさせられ

琉球の貿易は薩摩藩が握るようになった

こうして間接支配するようになり、年貢の上納・貿易の統制

そして江戸上がりなどの義務を負うことになった

 

琉球国は対外的には独立した王国として存在するようになった

尚寧王一行は、1611年8月まで薩摩に滞在した

 

三年後に帰国した菊隠は、国難のときに対する功績により

大里間切を給地され、その地に西来院を建立し

開山祖菊隠西来和尚と称された

 

僧侶にもかかわらず、摂政同格の加判役

王子の位も与えられ、そして琉陽国師の称号も賜った

 

菊隠宗意は老いのため、三司官・諸々役職を辞し

隠居、隠居寺の料として知行高四百斛を与えられる

 

1620年8月7日に菊隠宗意は示寂した

墓は現在も西来院に現存する

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする