菊隠宗意 <5>
尚寧王一行は、将軍秀忠に謁見のため江戸に
菊隠も同行した、1610年8月28日の事である
そのとき薩摩藩は幕府から琉球の支配権と
奄美諸島を割譲し直轄領地として承認を得た
その道中摂政具志上王子が病死している
(静岡市清水区清見寺に葬られている)
1611年薩摩から「琉球は古来より薩摩藩の付属国である」と
記述された起請文書に、署名を要求され尚寧王と三司官は受け入れ
拒んだ三司官の一人謝名利山は斬首された
薩摩藩の支配は明治維新まで、二百七十年続くことになった
また貿易管轄権などの「掟十五条」を認めさせられ
琉球の貿易は薩摩藩が握るようになった
こうして間接支配するようになり、年貢の上納・貿易の統制
そして江戸上がりなどの義務を負うことになった
琉球国は対外的には独立した王国として存在するようになった
尚寧王一行は、1611年8月まで薩摩に滞在した
三年後に帰国した菊隠は、国難のときに対する功績により
大里間切を給地され、その地に西来院を建立し
開山祖菊隠西来和尚と称された
僧侶にもかかわらず、摂政同格の加判役
王子の位も与えられ、そして琉陽国師の称号も賜った
菊隠宗意は老いのため、三司官・諸々役職を辞し
隠居、隠居寺の料として知行高四百斛を与えられる
1620年8月7日に菊隠宗意は示寂した
墓は現在も西来院に現存する